「明日は、試合が終わったら仕事道具をまとめて来てな」。3年前の夏、フェンウェイパークでのヤンキース戦後。ロッカールームで上原に言われた。

当時はレッドソックスのクローザー。「明日」は自分がレ軍を取材する最終日だった。翌日の試合後、かばんを持って行くと「OK。じゃ、メシ行こ。これ持ってついてきて」と小さな紙袋を渡された。中にはTシャツが無造作に突っ込んであった。

細くて暗い、ほら穴のような関係者通路を歩いた。屈強な人たちがすれ違いざま「見ない顔だ」といぶかしそうにしていた。

「大丈夫かな?」

「首のパスは外して、しまって。今のお前は、オレの荷物を運んでいる関係者。大丈夫」

駐車場に出た。ガードマンに深々あいさつされ、難なく助手席に乗った。誘導の丁寧さから、この上ない敬意を払われているのだと分かった。運転する上原に気付いたボストン市民も手を振っていた。「今は徒歩通勤。そこ。歩いて3分だな。試合して寝て、また試合」。球場とは横断歩道を隔てただけのマンションを指さした。「ファンに囲まれないの?」「まったくないな。アメリカで、そういう反応はない」。

20分ほど走り、和食店に入った。すっかりごちそうになって外に出ると「お前のホテルはそこ」と言われた。目と鼻の先…暗くて分からなかった。「じゃあな。この先、気をつけて」と握手した。のんきに「元気で~」と手を振って見送り、ふと考えた。

久しぶりの来訪者をもてなしてやろうと考え、いつもの徒歩通勤をやめ、関係者に仕立てるための紙袋を用意し、雑談で聞いたホテルを覚えていて、近い店を予約した…。初めて会った13年前の1月、入団から取材していた先輩が「ウエ、頼むな」と紹介してくれた。ふいにのぞかせる優しさは、たったひと言を忘れていない証左だった。

それは意外でも何でもなく、世界一のクローザーになろうと変わるはずもなかった。肩書や地位なんかを判断基準とせず、自分が「こう」と決めたことに対して、ただいちずな上原浩治そのものであり、最大の魅力でもあった。

昨年の晩秋と今年の2月に「同年代、少なくとも自分にとって、勝負を続ける姿は希望だ。いろんな意見があると思うけど、まだまだやめるなんて考える必要はない。頑張って」と伝えた。2回とも「そう言ってもらえるとな」の答えだった。本音を伝えた一方で「あれだけ練習してきたんだ、またボールは戻るだろう」との希望的観測もあった。要は、衰えを認めたくなかった。寂しくなるからだ。

どこが全盛期か分からないキャリアを積んだ上原。30そこそこで出会い、記者として育ててもらい、たくさんの楽しき思い出をもらい、制球力こそ野球における最高の技術と教わり、愚直の尊さを学んだ。縁に感謝、お疲れさまでした。【宮下敬至】

◆宮下敬至(みやした・たかし)99年入社。04年の秋から野球部。担当歴は横浜(現DeNA)-巨人-楽天-巨人。16年から遊軍、現在はデスク。