転校したばかりの教室で、何かと心細いのに、意地悪な男子がはやし立てる。

「おい、キャバレー春美!」

何を言われているのか分からなかった。でもやがて、キャバレーは大人が行くところで、阪神電車の尼崎駅近くに、自分と同じ名前の店があるのだ、と知った。なぜ、そんなお店に私の名前を、と悲しくなった-。

父親の仕事の都合で神戸の住宅街から、阪神工業地帯の中心地、兵庫県尼崎市に引っ越した1953年(昭28)秋の日。佐々木春美さん(75)は、今も覚えている。

「私は小学4年生でした。あのころの尼崎は、にぎやかでね。キャバレーもたくさんあって『春美』は有名でした。小学生が知っているほどですから。その名前を聞くと、懐かしい友に会ったような気がします」

現在の尼崎中央商店街。この少し奥にキャバレー春美はあった
現在の尼崎中央商店街。この少し奥にキャバレー春美はあった

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敗戦間もない混乱期とはいえ、おかしな野球チームがあったものだ。

ボーイや客を選手にしたのか、はたまた選手がボーイや客になったのか。衰えた元プロ野球選手も加わるチームに、スタンドからホステスさんたちが黄色い声援を送っている。野球好きで知られる尼崎のキャバレー経営者が結成した社会人チームだ。その名を「キャバレー春美」といった。

戦争が終わって、みんなこぞって白いボールを追いかけた。工場と闇市で活況を極める尼崎に、キャバレー野球団が誕生したのは、そんな時代。52年のことだった。

49年に342チームが加盟、発足した現日本野球連盟は、その50年史で当時を「個人商店から大手企業、官公庁、公共団体も競うようにチームを結成した」と記す。背景に「GHQ(連合国軍総司令部)が野球を通じて日本の民主化をはかり、戦後の混乱に対処しようとした」ことも「官公庁を巻き込んで野球熱に拍車をかけた」という事情があったようだ。

「何やねん、あのチーム」。高校や大学で活躍した、富士製鉄、川崎製鉄、神戸製鋼といった戦後の日本経済を担う大企業の選手たちは、見下したように言い合った。

「何でキャバレーが野球やるんや」「ネエちゃんが応援に来るなんて、聞いたことないで」

とはいえ、元プロも在籍する力のあるチーム。春美は加盟初年度から快進撃を始める。

初めて出場した52年都市対抗兵庫県予選では、前年の覇者、足立商店を7-3で破り、続く洲本専売を13-10で撃破、尼崎市役所にも勝って決勝進出。最後は名門、富士鉄広畑(現日本製鉄広畑)に0-7で敗れたものの「春美」の名はやがて近隣の小学生も知るところとなっていく。

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商都・大阪と港町・神戸にはさまれた庶民の街、尼崎。その昔、駅前商店街にあったキャバレー野球団の物語。(つづく)

【秋山惣一郎】