平成の初め、プロ野球界は「西武黄金時代」の真っただ中にあった。森祗晶監督に率いられた1986年(昭61)から1994年(平6)までの9年間で、リーグ優勝8回、日本一6回。他の追随を許さない圧倒的な強さを誇った。今年1月に81歳を迎えた名将が当時を振り返った。

森が清原和博を語った。16年(平28)2月に覚せい剤取締法違反で逮捕され、現在は執行猶予中のかつての愛弟子。「そっとしておいてやりたい」としながら続けた。

「どういう理由かは分からないが、きっとすごく寂しい思いがあったのか…。そういう程度にしか思えないんだ。まだ残された人生は長い。誰だって間違いは起こす。それはそれとして、これからの残された人生を大切に生きていって欲しいと思う」

強調したのは「これから」だった。「これまで」があまりに輝かしいものだっただけに、余計にそう願っているのかも知れない。

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黄金時代の西武を支えた選手は多士済々だった。中でも、森が「文句のつけようもない素晴らしい選手。随分、勝ちに導いてくれた」と絶賛するのが清原だ。

「個人の数字よりも、チームの勝利を一番欲した選手じゃないかな。あれだけの選手だと、まず自分の成績にいく。チームが勝っても打てなきゃ面白くないと。だが、清原はチームの勝利を大前提に、自分がどういう役割を求められているのか理解していた。“無冠の帝王”といわれたが、自分の成績を優先していたら個人タイトルを取っていただろう。4番を背負いながら、状況に応じて打撃を変えられる。何が何でもホームランではない。走者を進めるなら右に打つ。そういう考えができていた。何も注文することはなかった」

監督1年目、86年(昭61)のドラフト1位ルーキーだった。甲子園のスーパースターを、どうデビューさせるか。4月5日の南海2回戦(西武)で6回から途中出場させると、9回のプロ2打席目で藤本修二からホームランを放つ。

「マスコミを含め、世論は結果を求める。いかに良いスタートを切らせてやるか。相手投手がどういう投手の時、答えを出すだろうかと考えた。そこで藤本。それほど速くない。スライダー、シュートもあるが、あのスピードなら対処するだろうと思った」

10月からは4番に座り、高卒1年目で31本塁打を記録。96年オフに巨人にFA移籍するまでの11年間で計329本塁打。陰には、森なりの気遣いもあった。

「高校からのスター。彼のプライドは絶対、傷つけちゃいけないと考えた。何かあれば(人前ではなく)部屋に呼んで1対1でゆっくり話をした。ただ、こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけないと、手を焼いた覚えはない。礼儀正しいし、立場もわきまえていた。そういう面で注意したことはなかった」

不振に陥った清原の方から「4番を外して下さい。チームに迷惑をかける」と申し出てきたこともあった。だが、突っぱねた。「『俺が決める。言われたことをやれ』と4番は外さなかった。プロなら、誰でも通る試練。乗り越えさせなければ」。師弟の絆があった。清原抜きに、黄金時代は語れない。(敬称略=つづく)【古川真弥】

86年4月、南海の藤本(手前)からプロ第1号本塁打を放つ清原は打球の行方を追う
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