平成の記録を不定期で振り返る4回目は、三振を取り上げます。1993年(平5)にブライアント(近鉄)が史上初の200三振を喫し、98年には石井一久(ヤクルト)が奪三振率11・05の新記録をマーク。平成のプロ野球は三振が増えました。

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昭和時代にプロ野球は3万6682試合行われ、三振が34万1595個。両軍合わせた1試合平均の三振数は9・3個だった。これが平成時代は2万4867試合で33万1768三振となり、1試合平均は13・3個に増えた。奪三振率で計算すると、昭和の4・69から平成は6・73へアップした。シーズン三振のチーム最多記録は14年西武の1234個で、シーズン奪三振のチーム最多記録は10年ソフトバンクの1244個。昭和時代は三振、奪三振が1000の大台を超えるチームがなかった。

シーズン奪三振の上位は300イニング以上投げていた昭和時代の投手だが、奪三振率は10傑のうち9人が平成時代。奪三振率9・00以上は昭和時代の9人から68人に増え、68年江夏しかいなかった奪三振率10・00以上は、平成に入って17人がマークした。投手の記録は昭和時代のものが多く残っているが、奪三振に関しては95年野田(オリックス)の1試合19奪三振、90年野茂(近鉄)のシーズン21度の2桁奪三振、17年則本(楽天)の8試合連続2桁奪三振など、平成時代に記録が更新された。

打者のシーズン三振記録は平成時代の選手が上位を独占。100傑に昭和時代の選手は5人しかいない。日本人選手のランキングでは、1位の04年岩村(ヤクルト)から36位の11年中田(日本ハム)まで平成の選手だ。シーズン100三振以上は昭和時代の73人から平成時代は461人と、6倍以上に増えた。

投手側から考えられる三振増の要因は変化球と分業制。昭和時代の変化球はタイミングを外すカーブと打球を詰まらせるシュートが中心だったが、現在は空振りを奪うフォーク、スライダー系が全盛。速球だけでなく、変化球で空振りさせる時代になった。加えて分業制により、短いイニングを全力で投げることが三振増につながった。

打者側からは、意識の変化が大きいかもしれない。川上(巨人)や張本(ロッテ)に代表されるように、昭和時代は三振が少ないことが好打者の条件だった。追い込まれたら何とかバットに当てようとしたが、最近は強く振ることが重要で三振でも内野ゴロでもアウトは同じと考える打者が多くなった。打者が三振を気にしなくなった結果、三振の多い3割打者が続々誕生。昭和時代にはわずか6人だった100三振以上の3割打者が、平成時代は90人いる。柳田(ソフトバンク)は15年に101三振、18年に105三振で首位打者を獲得するなど、昭和時代にはいなかった100三振の首位打者も生まれた。【伊藤友一】

18年10月、日本シリーズで三振するソフトバンク柳田
18年10月、日本シリーズで三振するソフトバンク柳田
三振記録
三振記録