さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第4弾は愛甲猛氏(54)が登場します。

 横浜高のエースとして2度の甲子園に出場し、3年夏は日本一に輝きます。

 しかし、愛甲氏の高校時代は波瀾(はらん)万丈でした。1年生エースとして甲子園に出た後、故障を契機に道を踏み外しかけます。

 野球をやめ、不良仲間と遊び回る時期もありました。恩師、友人、チームメート…さまざま人々の支えを受けて、再び野球に取り組む決意を固めます。

 孤独を好む、ワンマンだった少年が、仲間とともに成長していく姿を全15回でお送りします。

 5月9日から23日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。


 ニッカン・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

取材後記

 安西健二氏(54)が、閉会式の話をしてくれました。

 1980年(昭55)夏の甲子園大会。横浜高校は日本一に輝きました。その閉会式で、選手たちは一列に並びました。愛甲猛キャプテンを先頭に、身長順に並んだそうです。

 「1番セカンド」で活躍した安西氏は、当時166センチとチームで一番小柄でした。だから最後尾に並びました。そこから表彰を見守るつもりでした。ところがチームメートから次々に「安西いけ。安西がいけよ」と声がかかりました。

 代表の選手が、優勝旗や盾などを取りに行きます。もちろん1人はキャプテンの愛甲氏です。それに続く代表に推してもらいました。安西氏は最後尾から走って表彰を受けたそうです。

 「うれしかったね。みんながオレに行けと言ってくれた。何というか…自分がやってきたことが間違いじゃなかった。それをみんなが認めてくれた気がしました」

 キャプテンの愛甲氏は投手なので、練習の大部分が別メニューです。野手陣がグラウンドで練習する際は、安西氏がキャプテン役を務めました。

 「みんなに厳しいことを言っていました。ミスが出た時に同級生を叱ったりね。チームが強くなり、勝つためには必要だと思っていました。でも、チームメートからは『同級生なのに偉そうに』って思われていた。オレのこと、大嫌いっていうヤツもいる。特に、途中で退部したヤツらはオレのこと大嫌いだろうな。でも、最後まで一緒にやった仲間は分かってくれた。それがうれしかった」

 仲間の声…「安西がいけよ」…その声は、今も耳に残っているそうです。

 監督だった渡辺元智氏(72)が、興味深い話をしてくれました。愛甲氏たちのチームと、同じく日本一に輝いた松坂大輔投手(36=ソフトバンク)のチームとの比較です。

 「松坂たちの代は完璧なチームワークでした。ベンチに入れない3年生も含めて一致団結していました。甲子園にも全員連れて行きました。控えの子たちは洗濯などもしてチームに貢献していました。でも、愛甲たちは違ったかな。選手間に距離があったように思います」

 愛甲氏たちは、戦いながら団結していったのだと思います。バラバラだったチームは、勝つことで1つになっていった……

 愛甲氏は、早実との決勝戦で自らマウンドを降ります。孤独を好む、ワンマンだった少年が、最後の最後に仲間を信じ、託した。

 甲子園という大舞台が、心の奥底に隠れていた、愛甲氏の素直な感情を引き出してくれたように思います。

 15回に及ぶ今回の連載では、愛甲氏や仲間たちの素直な心情に迫りたいと取り組みました。

 早実との決勝戦で好リリーフした川戸浩氏(54)が言っていました。当時のチームメートは時々、顔を合わせるそうです。

 「僕らも年ですから、そう年中ではない。何年かに1度ですよ。居酒屋などで昔話をします。愛甲も来ますよ。愛甲も安西も、酒は一滴も飲めませんけどね」

 仲間の存在。

 それは勝者にも敗者にも等しく与えられる、高校野球の財産です。【飯島智則】