さまざまな元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第14弾は「甲子園のプリンス」と呼ばれた太田幸司さん(65)です。

 太田さんは三沢(青森)エースとして、1969年(昭44)夏の甲子園の決勝で松山商(愛媛)と激突しました。延長18回引き分け再試合の激闘の末、再戦には敗れ、準優勝投手となりました。

 甘いマスクも注目を浴びた太田さんの高校時代を8回の連載でお届けします。8月21日から28日までの日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカン・コムでは連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

取材後記

 1998年夏の甲子園で、延長17回の激闘になった横浜(神奈川)-PL学園(大阪)戦を取材した。決勝アーチを浴びたPL学園のエース上重聡さんを取材通路で待ちながら、熱い涙を予想していた。だが予想は、晴れやかな笑顔で裏切られた。「松坂との投げ合いは本当に楽しかった。いつまでもいつまでも、この時間が続けばいいと思って投げていました」と上重は語った。

 真夏ですよ。たくさんたくさん投げているんですよ。ほんまかいな? とそのときは思ったが、今回「野球の国から」で取材した太田幸司さんもよく似た話をされた。「体は確かに疲れてる。でもどこまでも行くつもりで投げていたんだよ」と。

 甲子園でも近い将来の導入が予想されるタイブレークでの決着について、太田さんは「決勝はずっと決着つくまでやったらいい。甲子園でタイブレークはないやろう、という気持ちです。真夏の暑さや緊張感に耐えて試合を続けられるようにやってきているんだから」と持論を語った。

 そこに行き着いた者しか見ることができない風景を、太田さんや上重投手らは見ていたのだろう。選手の健康を考えれば賛否両論ある延長戦。ただ太田さんの三沢や上重投手のPL学園、田中将大(現ヤンキース)の駒大苫小牧のように、勝者だけでなく敗者も深く人々の記憶に残るのは間違いない。【堀まどか】