江川の父、二美夫は、息子に懸けた「夢」の実現を見届けた後、自適の余生を送りながら10年6月19日、鬼籍に入った。84歳だった。父は、江川をプロ野球選手にするべく、計画を練った。野球環境が整った地区の小、中学校までバスで“越境”通学させ、天竜川の河原で何げなく石投げに興じさせ、甲子園出場と大学進学の両狙いとして、作新入学へ導いた。

 その過程で、二美夫が自ら動いたことが、ある。わが子の「気弱さ」を案じてのうえだった。

 江川家は、江川が4歳のとき静岡・佐久間町に引っ越すまで福島・いわき市で過ごした。2歳か、3歳のころ、父は、息子を自宅からほど近い、太平洋岸にある塩屋埼灯台に連れていった。海風をまともに受ける、てっぺんの欄干で父は信じられない行動に出た。幼子の両脇を手で抱えたまま、上体を“逆さづり”にしたのだ。息子は恐怖のあまり、大声で泣きわめいた。だが、父はやめようとしなかった。「強い子になれ!」と叫びながら…。泣き虫な息子への“荒療治”だった。

 この体験は江川の後の高所恐怖症に、さらに飛行機嫌いの青年に親身に接した、元客室乗務員の妻、正子との出会いに、つながる。そして、父への畏怖の念だけを、確実に募らせた。

 写真を撮るときには「男は笑ったり、歯を見せたらいかんぞ!」と一喝された。勝負師となるにあたって無用な「弱み」を打ち消すべく、父は表情を読まれない術をたたき込んだ。

 二美夫の仕事は、炭鉱内に落盤防止の坑木を取り付ける、危険なものだった。江川は、父からのDNAを、投手の「駆け引き」として受け継いだ。「変な音が1つでもしたら落盤は起きると、話していた。音に対しては、寝ていても神経を薄くしたことはない、ともね。おやじが鉱山の中で音を聞き分けたように、オレは打者の打ち方、スイングの仕方、好きなコース、苦手な球種を見極められる“特殊技能”を身につけたと思っている」。

 「怪物」はノーヒットノーランでも、パーフェクトでも表情を崩そうとしない。ガッツポーズも、万歳もしない。涙を見せることもない。「相手に悪いじゃない。相手も一生懸命やってるわけだし、あんまり喜ぶのは失礼だよ。それに、負けて(甲子園での)土を取るなんて写真は、撮られたくなかった」。春も夏も、記念の土は、甲子園練習のときこっそりコーヒーの空き瓶に入れ、持ち帰った。

 1度、二美夫から叱られたことがある。2年春の関東大会、千葉商戦。延長12回、二塁手菊池誠のトンネルでサヨナラ負けした。「エラーしやがって…」。江川の非難の視線が当事者に向けられた。小山の実家に戻って、二美夫にグチると、話し終わらないうちに「ふざけんな! 前に打たせたお前が悪いんじゃないか!!」と、どやされた。以降、鉄面皮はもうはがれることはなかった。

 周囲への心配りができ、心根の優しい素顔を、徹頭徹尾、マウンドでは隠し通した。センバツに初お目見えし「甲子園球場は広いと思ったか?」と聞かれ「それほどでもないですね」と返したことは有名だが、これも計算ずくだった。

 「本心じゃなかった。“わーっ、でっかいなあ”と思ったけど、オレのコメントは対戦するチームが絶対目にするじゃない。“(江川って)やっぱりスゲエな”って思われた方がいいと思った」

 開会式後の第1試合、北陽(現関大北陽、大阪)戦で19三振を奪い完封した後、江川は例のポーカーフェースでこう言っている。「周囲の雑音のないマウンドで伸び伸びと投げられました」。

 マウンドだけは、江川にとって、周囲への気兼ねのいらぬ「江川卓」としての能力と心情を、存分に発揮できる、唯一の場所だった。(敬称略=つづく)

【玉置肇】

(2017年4月16日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)