全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える来年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」。元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」の第2弾は、長嶋茂雄氏(81)の登場です。佐倉一(現・佐倉)時代は甲子園に出場できませんでしたが、のちに日本中を熱狂させるミスタープロ野球の基礎を作った時期でした。長嶋氏の高校時代を8回でお送りします。


佐倉第一高校時代の写真を手に笑顔を見せる長嶋茂雄氏(撮影・浅見桂子)
佐倉第一高校時代の写真を手に笑顔を見せる長嶋茂雄氏(撮影・浅見桂子)

 今から2年前の2015年12月。当時79歳の長嶋は、テレビ番組の収録で歌声を披露した。阿川佐和子が司会を務めるTBS系テレビ番組「サワコの朝」にゲスト出演した際、「記憶の中で今もきらめく1曲」を挙げるコーナーがあった。

 長嶋が選んだ曲は灰田勝彦の「野球小僧」だった。照れながらも満面の笑みで1節を歌い上げた。


 野球小僧に逢ったかい

 男らしくて純情で

 燃える憧れスタンドで

 じっと見てたよ背番号

 僕のようだね君のよう

 オオ マイ・ボーイ

 朗らかな朗らかな

 野球小僧


 まるで長嶋を歌ったような詞だが、少しばかり時代が合わない。この曲の発売は1951年(昭26)の7月…そう、長嶋が佐倉一高校に入学した年だった。彼の高校時代に大ヒットしていた。

 長嶋茂雄の高校時代。

 その後の輝かしい野球人生に比べれば、日の当たらぬ時代だった。甲子園は夢の夢だった。

 長嶋 遠い存在だったな、甲子園は。でも、春は甲子園、夏も甲子園って町中もその話題でね。話の中では甲子園はどうだと言ってね。ずいぶん夢を持ってやっていたもんだよ。本当に。

 高校時代の記憶は鮮明に残るのか。そう聞くと、長嶋はうなずいた。

 長嶋 覚えている。高校時代のことは大体覚えている。

 ソファに身をうずめ、長嶋は当時のチームメートと写る写真に目を落とした。記憶の中で、今もきらめく日々を思い出すように。

  ◇◇◇  ◇◇◇

 長嶋は中学時代からショートを守っていた。佐倉一に入っても、ショートの位置についた。他のポジションは考えられなかった。

 入学時は身長170センチにも満たなかった。小柄で機敏に動くタイプだった。

 長嶋 1年生の時は背が低くて全然ダメ。でも足が速かったから、塁に出るとすぐ二盗。盗塁ですよ。次はサードへとね。

 高校に入学してすぐの練習試合に出場し、ヒットを放った。ショートには上級生のレギュラーがいたが、すぐに併用されるようになった。長嶋がスタメンで出場する機会もあった。

 当時の佐倉一コーチで、翌年から監督を務める加藤哲夫は、入学してきたばかりの長嶋をよく覚えている。コーチ、監督といっても、当時の加藤は大学生…長嶋の先輩になる立大生だった。年は5歳しか変わらない。

 加藤 小柄でしたね。他の選手より小さかったのは確かです。ボール(硬式)に慣れていないからトンネルしていましたが、小回りよく動く。打球に対するカンもいいし、これはいいプレーヤーになると思いました。

 部員は約20人と少なく、長嶋は試合出場の機会に恵まれた。1年夏の千葉大会、安房一との1回戦は「7番ショート」でスタメン出場した。ただ、この公式戦デビューは2打数無安打で2四球。チームも敗れた。

 この頃から長嶋の身長が伸びていった。2年になる頃には優に170センチを超え、打球が伸びるようになった。

 長嶋が通った佐倉一の校庭には、センターから右中間寄りのところに講堂があった。

 打席からの距離はおよそ100メートル。長嶋は、この講堂まで打球を飛ばした。壁に穴を開けたり、天井の瓦を割った。雨漏りの原因になっていたという。

 長嶋 そうそう。よく当てたね、講堂に。瓦を割ってねえ。暴れてねえ。

 長嶋は笑いながら振り返るが、学校にとっては一大事だった。佐倉一の前身は佐倉藩11万5000石の藩校で、講堂は伝統の建物の1つだった。

 長嶋が打球を当てるたびに、加藤は学校に呼び出された。(敬称略=つづく)

【沢田啓太郎】


 ◆長嶋茂雄(ながしま・しげお)1936年(昭11)2月20日、千葉県印旛郡臼井町(現佐倉市)生まれ。佐倉一高(現佐倉高)から立大進学。杉浦、本屋敷らと黄金時代を築き、首位打者2度。当時の東京6大学新記録となる通算8本塁打を放った。巨人入団1年目の58年に打率3割5厘、29本塁打、92打点で本塁打王、打点王に輝き新人王。59年の天覧試合(対阪神)では同点本塁打とサヨナラ本塁打。王貞治との「ON砲」で65~73年の巨人V9を支えた。74年に現役引退するまでMVP5度、首位打者6度、本塁打王2度、打点王5度。巨人監督は75~80年、93~01年の計15年務め、リーグ優勝5度(76、77、94、96、00年)、日本一2度(94、00年)。アテネ五輪日本代表監督として03年アジア予選で五輪出場を決めたが、04年の本戦では病気のため指揮を執ることができなかった。88年野球殿堂入り。現役時代は178センチ、76キロ、右投げ右打ち。

(2017年4月20日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)