長嶋が打撃練習を始めると、なかなか終わらなかった。1年後輩だった寺田哲夫が、当時を振り返る。

 寺田 引っ込まないんですよ。たとえば1人10分、15分ずつと決められていても、納得がいかないと「もういっちょう」「もういっちょう」と、打席を外さない。納得するまでやる人でした。我々は納得できなくても時間がくれば引っ込むしかない。でも、長嶋さんはチームの要でしたからね。だから私たちも、その時分から不公平とは思いませんでしたよ。

 寺田には忘れられない思い出がある。長嶋が3年のキャプテンで、寺田が2年の頃だった。

 その日は朝から強い雨が降っていた。グラウンドも水浸しで、とても練習できる状態ではなかった。寺田は野球部の同級生と、空を見上げながら話した。

 寺田 板倉って同級生とね。「雨だし、もう映画を見に行っちゃおうよ」って。雨でも練習はあったんですけどね。佐倉に映画館がありましたから。

 日本は、その前年の1952年(昭27)に主権を回復していた。GHQの検閲がなくなった日本の映画界は、黄金時代を迎えていた。この頃は邦画で小津安二郎が監督、原節子が主演の「東京物語」。洋画ではチャールズ・チャプリンの「ライムライト」や西部劇の「シェーン」がヒットしていた。

 寺田と板倉は正門まで来た。佐倉一の校門は大きな木々に囲まれている。近くには旧佐倉藩の最後の藩主、堀田正倫(まさとも)の銅像もあり、伝統を感じさせる。そこで、長嶋に声をかけられた。

 「おい、どこに行くんだ。体育館で練習だ!」

 そのまま体育館に連れ戻された。何の映画を見るつもりだったか、今となっては分からない。

 寺田 見張っていたのかは分かりませんが、見つかっちゃったんです。長嶋さんは、ものすごく練習熱心でした。もう鬼でしたよ。

 このエピソードを長嶋に振ると、声を出して笑った。

 長嶋 あ、そういうことあった? ふーん。

 ちなみに寺田はチームで一番の俊足だった。中学時代には100メートル走の県大会に出た経験もある。練習の最後に行うベースランニングでは、足が自慢の長嶋にも勝った。

 寺田 長嶋さんも速いんだけど、競走すると私が勝つんですね。でも、長嶋さんはいつも「もういっちょう!」ですよ。しまいには私も「何回やっても同じだよ」って(笑い)。

 ある部員の成績が落ち、学校の先生から「野球部をやめろ」と詰め寄られた時は、長嶋が職員室へ乗り込んだ。「野球をやめさせたら成績が良くなるのか? 野球は最後までやらせてやらないといけない」と直談判して翻意させた。野球に情熱を持ち、のめり込んでいた。

 そんな長嶋が1度だけ、練習態度でとがめられた。守備の動きが悪く、監督の加藤哲夫に叱責された。

 加藤 とにかく相当叱ったらしいです。「野球をやめろ」くらいなことは確か言ったんですね。

 試合直前でもあり、加藤の剣幕はすさまじかった。それを見て他の選手がこっそり言ってきた。理由を聞いて加藤は驚いた。これもまた、のちの長嶋につながるエピソードである。(敬称略=つづく)

【沢田啓太郎】

(2017年4月22日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)