最後に佐々木の大学、プロでの活躍を紹介したい。どうしても湘南時代の甲子園優勝、そしてプロ野球ニュースのキャスターとしての印象が強い。だが、実績も素晴らしい。

 慶大に進んだ佐々木は、大学ジャパンに選ばれる選手に成長した。4年生の秋には、フィリピンで行われたアジア大会に出場。2学年下の長嶋茂雄(立大)と同部屋で2週間を過ごした。

 佐々木 それからですよ。長嶋をつかまえて「おいシゲ」なんて呼び捨てできるのは、何人もいないからね。

 キャスター時代には、長嶋との関係が生きたという。同じ釜の飯を食べた絆は強い。

 巨人の監督に2度なった藤田元司は、慶大の同級生だった。

 佐々木 4年間、試験という試験を全部見せた。あいつを4年間で卒業させた。これは大変な仕事でね。全科目だから。

 エースにカンニングをさせるため、湘南時代の猛勉強が生きた。こちらも、のちのキャスター活動に役立った。

 佐々木 取材に行くと、いつもとっておきの「いい話」をしてくれました。

 大学4年で主将となり、東洋高圧砂川という社会人チームを持つ北海道の企業に就職内定した。その後、パ・リーグの高橋ユニオンズから誘いがあった。自信がなく断り続けたが、最終的にはプロに進んだ。

 佐々木 単純にお金の問題です。おやじが家出して、母親が1人でうちを支えてくれていたから。ユニオンズの提示した契約金が350万円。今の貨幣価値なら8000万円とか9000万円だと思う。

 同級生の初任給が1万円という時代。母へ孝行したいという気持ちがあった。不義理をした東洋高圧砂川には、泣いて謝った。禍根は残らず、翌年には後輩が2人入社した。

 プロに入ると、1年目から1番二塁手として全イニング出場した。これは2リーグ制後、初の記録だ。

 佐々木は「弱いチームにいたから」と謙遜する。だが、以後も長嶋(巨人)と徳武定之(国鉄)の3人しかいない。オールスターにも監督推薦で出場し、最終的に積み重ねた安打は180。これは現在も新人の最多安打記録としてプロ野球史上に残る。

 佐々木 いずれ破られるでしょうがね。イチローみたいなのが出てきたら。

 2年目に高橋は球団解散となり、大映に移籍した。翌年に大映が毎日と合併し、大毎となった。4年目のオフ、西本幸雄監督から26歳で自由契約を告げられた。解説者に転身した後、76年からプロ野球ニュースのキャスターとなった。

 すべての局面で成功を収めた野球人生だが、原点は自信をつけた高校野球にあったという。

 佐々木 指導者に恵まれたのと、みんなの気持ちが非常に純粋でしたね。優勝した翌日の朝日新聞に「湘南、無欲の勝利」とあったけど、まさに無欲の勝利。勝とうなんて、これっぽっちも思わなかったんだから。そういう気持ちにさせた監督の心理作戦。スポーツ心理学ですよ。

 湘南ボーイらしく、親子鷹(だか)での全国制覇をさわやかに解説した。(おわり=敬称略)

【斎藤直樹】

(2017年6月2日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)