日本一という目標が、現実的になってきた。2年秋は九州大会の1回戦で延長14回の末に鹿児島実に敗れ、センバツ出場は逃した。その鹿児島実は九州大会を制覇。唯一、苦しめたのが沖縄水産だった。大野たちには手応えがあった。甲子園の戦いを知っている強みもあった。夏への期待感に胸をふくらませた。

 4月に熊本遠征があった。熊本工、鎮西を相手にダブルヘッダー。鎮西にサヨナラ負けを喫したが、大野は2試合を1人で投げきって、3失点に抑えた。球速は自己最速となる145キロをマークした。

 大野 この時はスピードも出たし、ピッチングの内容も良かったですね。自分の中では手応えをつかんだ2試合でした。体の異変も感じなかったし、夏の大会に向けて「よしっ、いけるぞ」と思っていました。その矢先だったんです。

 悪夢はゴールデンウイーク中の練習で起きた。大野はブルペンで投球練習をした。球は走っていた。どこにも違和感はなかった。

 だが、ある1球…ボールを投げた瞬間に右肘から音が聞こえた。

 大野 ブチッとか、ボキッという変な音でした。自分でわかりました。「あっ、やってしまったな」と。肘がぶっ飛んだなと。はっきりと自覚しました。

 故障の原因は分からない。ただ、投球過多であったことは間違いなかった。ブルペン投球は200球以上が普通。400球以上を投げた日もあった。少しでも手を抜けば栽の平手打ちが飛んできた。常に全力投球だった。

 右肘の異変。野球人生を左右するほどの重症と自覚していながら、大野は誰にも言わなかった。黙って投球を続けた。

 大野 この痛みはどうにもならないと悟っていました。それまでの痛みとは種類が違うのは明らかでしたから。ドクターストップがかかるのも嫌だったので、病院には行きませんでした。行って現実を知るのも怖かった。何とか、ごまかしながら投げるしかないと思いました。

 故障を打ち明けたら、監督の栽弘義は何と言うだろうか。自分を頼みに思ってくれるチームメートはきっと動揺するだろう。「今年こそ日本一を」という沖縄県民の大きな期待も裏切ってしまうのではないか。

 何より大野自身も、甲子園で投げたかった。先輩の神谷善治のように、沖縄水産のエースとして大舞台に立ちたかった。

 大野は黙って右肘の痛みと闘った。投球練習を少なくするため、ランニングと称してグラウンドを離れた。練習試合ではめった打ちされる。痛みから逃れるためにひたすら走った。大野がグラウンドにいる時間は減っていく一方だった。

 故障を知らぬチームメートは、大野が手を抜いていると思った。練習試合でライバル那覇商に連敗し、日本一どころか甲子園が危なくなった。それでもエースは練習に熱が入らない…ように映った。

 ベンチメンバーを外れた知念直人が、草刈り鎌を手に大野を追い掛けたのは、この頃だった。主将の屋良景太が振り返る。

 屋良 全然ボールが走っていませんでしたね。それまで簡単に打ち取っていた打者に、簡単に打ち返された。どうしたんだ? 何が起きたんだ? とは思っていましたけど、まさかケガをしているなんて頭にもありませんでした。

 沖縄の夏は早い。6月、沖縄大会の初戦となる2回戦を迎えた。いきなり苦戦を強いられた。(敬称略=つづく)

【久保賢吾】

(2017年6月25日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)