宇部商との3回戦も、大野は5点を取られた。5回までは2安打で二塁も踏ませぬ投球を見せていたが、6回に2点、7回に2点、8回に1点を失った。4回までに6点のリードをもらいながら、7-5の辛勝だった。

 この試合後、主将の屋良景太は終盤の失点で追い込まれる試合展開について「もう慣れました」とコメントしている。

 屋良 倫が点を取られるのは普通のことなんだと。みんながそういう認識を共有しました。準々決勝(柳川戦)の前にみんなで話したんです。「倫は5点は取られるだろうから6点取ろうぜ!」って。

 宣言通りに打線は6点を取った。大野はやはり中盤以降につかまり、6回に3点、7回に1点を失った。それでも仲間の予想した失点より1点少なく、6-4で準決勝進出を決めた。

 この頃になるとチーム内の雰囲気に変化が生じた。沖縄大会を迎える前は、大野の不調から不協和音が生まれた。だが、次第に「不調の大野をカバーしよう」というムードに変わった。「6点取ろう」が合言葉になった。

 大野 みんなが、僕の故障を認識した時からですかね。チームがガチッと1つになったような気がするんです。「6点取る」というチームの戦い方も定着しました。

 実際には仲間は「故障」ではなく「不調」と認識していたが、チームがまとまったのは事実だった。

 大野 確かに、エースで4番の僕が万全なら、逆にチームはバラバラだったかもしれません。大会後には監督も「大野の故障がなければ、決勝までいけなかったかもしれない」と言っていたそうです。高校野球って、不思議な要素が勝敗に左右しますから。

 大野は苦しい中で必死の投球を演じた。球は走らなかったが、要所でスピードを上げて抑えた。頼みの綱はスライダーだった。故障した右肘は曲がったままだが、そんな状況でも投げられる球種だった。

 大野 真っすぐのスピードは120キロ台かな。スライダーは肘の負担が少なくて楽だった。だから、頼りっぱなしでした。緩急を使って90キロ台のスローボールを投げたりもしました。本当ならインコースも使いたかったけど、そんな余裕はありませんでした。コントロールとスピードを意識して。要所では少し力を入れて130キロぐらいになったのかな。それぐらいしか方法はありませんでした。

 8月18日の3回戦から、同21日の決勝戦までは休養日なしの4連投だった。

 大野 常に限界は超えていたけど、特に2連投目はきつかったですね。ただ、3連投目からは体がほぐれているし、疲れない投げ方が自然にできたんです。

 準決勝の鹿児島実には、前年秋の九州大会1回戦で延長14回の末に敗れていた。因縁の相手だった。

 大野は終盤の4失点など6点を失った。だが、打線はそれを上回る7得点を挙げた。1点差の9回裏には1死二、三塁とサヨナラ負けの危機を迎えたが、二ゴロ、右飛で逃げ切った。

 大野 大会後に沖縄に戻った時、おじいとおばあ、年配の方は準優勝とともに薩摩に勝ったことを喜んでくれました。歴史で勉強しただけの僕ら世代はピンとこなかったけど、よくやったと。

 琉球王国時代に薩摩藩に攻められ、支配された歴史が根底にあった。

 2年連続の進出となった決勝戦。その前夜に大野は、栽から右肘をマッサージしてもらった。「監督とエースは一心同体だよ」という監督の栽弘義の言葉を聞きながら、大野は覚悟を固めた。(敬称略=つづく)

【久保賢吾】

(2017年6月28日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)