嶋は1920年(大9)12月15日、和歌山市小野町で生まれた。父の野口権次郎は、荷物を載せた荷台を馬に引かせて運ぶ仕事で生計を立てていた。嶋はのちに養子に行き、嶋姓を名乗ることになる。

 嶋が生まれた年に、海草中(和歌山)では野球部が産声をあげようとしていた。1期生の丸山直廣と和田庸之助が奔走したという。

 大学を卒業し企業の社医として就職後も、丸山は私財を投入して部の運営に力を尽くした。県内には和歌山中、和歌山商、海南中など強豪がひしめき、優秀な人材確保は重要課題だった。スカウティングも手がけた丸山のもとに、野球も学業も優秀な生徒と推薦されてきたのが嶋だった。

 35年の入学後、まず嶋は打力でベンチ入りを射止めた。一塁手で1年夏の和歌山県予選に出場。県、紀和大会を勝ち抜き、6年ぶりの甲子園を射止めたチームの一員になった。第21回全国中等学校優勝野球大会。全国デビュー戦は2回戦の松山商(愛媛)戦だった。「8番一塁」で出場し、1打数1打点の打撃記録が残っている。

 翌36年3月に就任した新監督、長谷川信義との出会いで、嶋は投手としての道を歩み始める。100メートル走11秒、走り高跳び1メートル65。山本暢俊が書いた嶋の評伝「嶋清一 戦火に散った伝説の左腕」によれば、体育の時間に嶋が出したその記録が、新監督の長谷川に「投手・嶋育成」へとカジを切らせた。並外れた足腰のバネに着目したのだ。嶋は、竹刀を手にした長谷川から投球フォームを細かく丁寧に指導された。時には手首、肩に竹刀が飛んできた。その厳しい指導を、嶋はのちに丸山が編さんした「輝く球史」に寄せた「海草時代」に感謝を込めて書き残した。

 「『大投手になれよ』と常に激励されながら当時二年生の未熟者の自分を見捨てることなく一心同体となって磨きに磨いて下さった長谷川先生のお骨折りを思えば感謝の涙が湧いてくる」

 3年生を迎え、投手・嶋の名は全国にとどろくようになる。37年夏の第23回全国中等学校優勝野球大会準決勝の中京商(愛知)戦。のちにプロで「鉄腕」の異名を取る相手エース野口二郎と、白熱の投手戦を演じた。

 嶋は1-0で迎えた3回裏に四球、失策がらみで3点を失い、1-3で敗れた。ただ大会の覇者、中京商を4回以降は無得点に抑えた力投は、朝日新聞社、日本高野連が発行する「全国高等学校野球選手権大会70年史」に「野口に対する海草中の左腕剛球投手嶋の健闘で興味を呼んだが、3回の攻防で海草中にツキがなく、この回の得点3-1のまま勝負は終った」と紹介された。

 この年の7月7日、中国・北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突。甲子園にも軍靴の音が迫っていた。ただ、エースが豊かな才能を花開かせようとしている海草中の前途に、関係者の期待も高まっていった。(敬称略=つづく)

【堀まどか】

(2017年8月13日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)