創部たった2年の済美が高校野球史に残る奇跡を起こした。04年センバツに初出場し、準々決勝に進んだ。相手は東北。ダルビッシュ有(現カブス)を擁す優勝候補だが、ダルビッシュは右肩に張りを訴え、登板回避。真壁賢守が先発した。済美は前年の明治神宮大会1回戦でプロ注目右腕を攻略し、7-0で完勝。むしろ真壁を警戒していた。

 序盤から2年生エースの福井優也(現広島)が打たれ、東北ペースで試合は進む。9回表終了時点で、スコアは2-6。土俵際に追い込まれた。円陣で監督・上甲正典の声が響いた。「愛媛、四国の代表として、とにかく1点を返そう」。先頭打者が右前打で出塁。「7番三塁」で出場した田坂僚馬(現部長)が右翼に三塁打を放った。「あれだけの練習をやってきた。やれば、絶対にできる」。日本一と自負する猛練習が支えになった。済美は関西に入ってからも、練習量を落とさなかった。割り当て練習も含め、4会場を転々とした。夜間も室内練習場で打ち込む。尼崎市にある宿舎の駅前ロータリーでトレーニング器具を持ち出し、通行人の視線を感じながら下半身強化を行った。

 二ゴロの間に田坂が生還したが、まだ2点差。しかも2死。ここから底力を発揮する。1、2番の連打で一、二塁。3番高橋勇丞(元阪神)に打席が回る。東北がタイムを取る。その時、上甲が高橋を呼んだ。手にしたペットボトルを差し出し、叫んだ。

 「高橋! これは石鎚神社のご神水じゃ。飲め!」

 奇跡の呼び水になった。5球目の直球をとらえる。打球は左翼ダルビッシュの頭上を越えた。劇的な3ラン。4点差からの逆転サヨナラ勝ちは春夏初だった。

 部長として隣にいた安永利文は記憶をたどる。「確かに2月に必勝祈願に行った。でも、そこでもらったかは分からない。私はウソだと思いましたよ。コンビニで買った水かもしれないが、そういうムード作りはうまかった。信じるモノは救われる」。もともと薬種商の免許を取り、上甲薬局を営んでいた。ナインには、折を見て、こう説いていたという。「重い病気の患者さんに何にでも効く万能薬と言って、小麦粉を飲ませる。自然とよくなることがあった。思いこみの力は大きい」。

 センバツ優勝後も、済美の快進撃は止まらなかった。サヨナラ本塁打を打った高橋が寮規則違反でベンチから外れる事件も起きたが、夏の愛媛大会を制した。4番鵜久森淳志(ヤクルト)が甲子園で3本塁打を放つなど強力打線で決勝まで進んだ。春の初勝利から甲子園9連勝。準決勝を終えた夜、上甲は宿舎で選手を集めた。

 「初出場で春夏連覇を打ち立てたら、今後破られることはない。この不滅の大記録に挑戦できるのは、お前たちだけだ!」

 上甲スマイルをトレードマークに、希代のモチベーターはそんな言葉で奮い立たせた。駒大苫小牧との決勝戦は乱打戦。10-13で迎えた9回表。済美に奇跡を再現する余力はなかった。優勝旗は初めて北海道に渡った。後日、上甲は自身の言葉で選手に重圧をかけたことを悔やんだという。しかし田坂は首を横に振る。「気負いになったというのは全くない。自分たちの力不足。駒大苫小牧は強豪校を倒しながら、勝ち上がってきた。向こうに風が吹いている雰囲気があった」。初出場校による春夏連覇のドラマは未完に終わった。

 それでも済美の偉業は語り継がれる。学園歌に、「やれば出来るは魔法の合いことば」というフレーズがある。当時の小泉首相が所信表明で引用したほどで、全国的な反響があった。すでに故人となったが、やればできるを実証した「上甲イズム」は今も済美に受け継がれている。(敬称略=おわり)

【田口真一郎】

▽04年春・準々決勝

東北(宮城)

 310 001 010 =6

 002 000 005x=7

済美(愛媛)

優勝インタビューを受け笑顔を見せる済美・上甲監督
優勝インタビューを受け笑顔を見せる済美・上甲監督