都国立(くにたち)の快挙に、「冷夏」と「小次郎」があった!? 80年(昭55)西東京代表は有数の進学校、都国立が旋風を巻き起こし、都立勢初の甲子園出場を果たした。3年生部員10人のうち4人が東大に進学した頭脳派集団の夏とは。

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 「国立小次郎」-。80年7月25日付の朝日新聞東京版に小さな記事が載った。都国立が1回戦で都武蔵村山、2回戦で都武蔵村山東、そして前日24日に武蔵を破った。勝てども攻め来る「武蔵」の連続に、当時の都国立野球部長、尾又利一がポロリ。「これじゃあ、まるで佐々木小次郎だ-」。

 83歳、尾又は昔日の言に触れ「(言い回しが)ロマンチックでしょ? 思い付きで言ったんだが、まさか優勝するとはねえ」と今も人ごとのよう。「小次郎」はそれ以後も勝ち進み、ついには「武蔵」を平定した。というのに、選手、関係者の喜び方は抑制が利いていた。エースの市川武史は優勝が決まった瞬間ガッツポーズどころか、キョトン。ナインも定番の「NO・1ポーズ」はなくぎこちなく喜び合った…。

 1浪後進んだ東大で「6大学」のマウンドも経験。現在、「キヤノン(株)デバイス開発本部所長」の市川に聞いた。「ミーティングで、勝ってもマウンドに集まらないで整然と並んだほうがカッコいいよな、と話していた。でも、みんなガーッと来ちゃって。話が違う、どうしよう…って顔です」。当時2年の女子マネジャー、木村恭子(日本経済新聞社)は、こう言う。「周りから“都立の星”と騒がれ、それに安易に乗っかるのは浅薄だと。勝ち進んでも自分たちを見失わないことを示したかったのでは…」。

 都国立の「金星」に慌てたのはむしろ周囲の方? 試合後の表彰式、場内アナウンスは「優勝校、東京都立…コウトウガッコウ!」と校名をすっ飛ばす始末。帰路にチャーターのバスが用意され厚遇と優越の中、地元到着。直ちに中央線国立駅から学校まで、徒歩で「凱旋(がいせん)パレード」が行われるほどのドタバタだった。

 都立なりの「反骨力」があった。練習時間は1日2時間半。校庭は4クラブ共有。進学校ゆえ勉強もマスト…。そこを「浪人覚悟」と割り切り、各自が自主練習に、集中的に取り組んだ。監督の市川忠男(17年、84歳で死去)は「守りの野球」で接戦に持ち込めば勝機は来ると、選手を説いた。縁の下の女子マネは「強豪と対戦して強くなってほしい」と、門前払い必至の強豪に、臆せず練習試合を申し込んだ。

 市川の投球こそ、優勝の原動力だった。全8試合完投のうち5完封。計81回、1109球を1人で投げ抜いた。延長18回引き分け再試合をはさむ4日連投もあったのに、サラリと言ってのけた。「練習で1日300球投げていたし、連投でも肩に重さも疲労もなかった。あの大会は涼しくて楽だった」。同年7月の東京の平均気温23・8度。決勝(同31日)の最高気温は29・1度。その夏を、気象庁は「冷夏」と呼んだ。

 主将で4番右翼手、名取光広(青森朝日放送、朝日新聞社から出向)は「タケシは本気で甲子園を狙い、みんなはそれに引っ張られ、だんだんその気になった」と分析。「(市川の)コントロールとテンポのよさから生まれるリズムを崩さないようにした」と捕手の川幡卓也(電通)が言えば、3番遊撃手の岩村太郎(平成立石ペンギンクリニック院長)は「勝ち進むにつれ、ピンチでも俺のところに打ってこい! とばかり守ってた」。ナインは一戦ごとに各自の役割到達度を高め、チーム力を甲子園まで昇華させた。大会前「予選が済んだらみんなで」と予約した浜名湖への水泳ツアーは、当然キャンセルされた。(敬称略)【玉置肇】

 ◆都国立の西東京大会戦績(80年) ▽1回戦2-0都武蔵村山▽2回戦4-0都武蔵村山東▽3回戦7-2武蔵▽4回戦4-0錦城▽準々決勝1-1佼成学園(延長18回引き分け再試合)▽同6-3佼成学園▽準決勝2-0堀越▽決勝2-0駒大高

 甲子園1回戦で79年優勝の箕島(和歌山)と対戦。0-5の敗戦だった。また、各種進学情報によると、今春の都国立の東大合格者数は都立で日比谷の48人に次ぐ26人。

 ◆東京の夏甲子園 通算172勝134敗1分け。優勝7回、準V3回。最多出場=早実29回。

甲子園出場を決めた試合のスコアブックを手にする市川武史氏
甲子園出場を決めた試合のスコアブックを手にする市川武史氏