福井の野球界に新しい時代を開いたのは福井商だった。68年、22歳で監督に就任した北野尚文は、43年務め、11年に勇退。通算36度の甲子園出場を果たしたが、頂点にはわずかに届かなかった。甲子園で「36敗」という歴代最多記録を保持している。

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 72歳になった北野は今も、福井商のグラウンドに足を運ぶ。退任して7年半。教え子の監督、米丸友樹のもと汗を流す選手に視線を送る。一線を退き、顔は柔和になったが、時折、甲子園のベンチで見せた勝負師の顔を見せる。

 福井の高校野球史は全国的に際だって輝かしいものではなかった。敦賀商(現在は敦賀)と若狭が甲子園で活躍したが、大きなインパクトは残していない。

 中堅校だった福井商は戦前に1度、甲子園に出場したきり。長く低迷が続き、OBから「野球部は存続しているのか」と皮肉を言われるありさま。再興へ、白羽の矢が立ったのが北野だった。龍谷大で主将として活躍する姿を見たOB会が招聘(しょうへい)した。

 68年に誕生した北野体制は最初からつまずいた。最初の夏は惨敗。本格的に強化するために、新チームには猛練習を課した。すると十数人の部員は夏休みの猛練習に耐えきれず、3人に減った。「めちゃくちゃやりました。徹底的に鍛えることしか考えていなかった。じゃないと何も変わらない」。周囲や北野の説得もあって部員の数人は戻り、危機はまぬがれたが、猛練習は変わらなかった。執念が実ったのは2年後。北信越大会で初優勝。翌71年のセンバツ切符を手にした。

 75年春には8強、78年春には準優勝まで上り詰める。北陸3県では初めてのことだった。96年夏と02年春は4強入り。特筆すべきは夏の大会で84年から03年まで20年連続の福井大会決勝進出。また86年夏からの8季連続甲子園出場の県記録は今も破られていない。

 福井の冬は長い。福井商はグラウンドこそ広くとれているが、室内練習場は手狭だ。「遠く長野から新潟、北信越のいろいろな高校の施設を見せてもらいました」。不利な環境に甘んじたくない、その一心。全国に先駆けて筋力トレーニングを本格的に取り入れたことでも北野は知られる。

 ほかに大きかったのはライバルの存在だろう。星稜(石川)の元監督、山下智茂。1学年上で、監督就任も山下が1年先。当時、甲子園で活躍できていなかった北陸勢。先を争う関係だったのは間違いない。

 福井の高校野球、北野尚文の原動力を探る上で、山下との関係が主題になるはずと今回の取材に臨んだ。だが、実情は少し違ったようだ。北野は山下への敬意を隠さなかったが、一方で「ライバル」の話にはなかなか乗ってこない。そこに北野のプライドを見る。星稜とは違うのだ、と。

 公立校ならではの苦労があった。星稜だけではなく、県内にも90年代に敦賀気比などの私立の強豪が台頭。土地柄、関西などから有望選手が集い、猛威をふるってくる。

 「福井県民には性格のおとなしい人間が多いとは思います。でも雪国特有の粘り強さ、忍耐強さはある。福井の人間として、意地を見せたい思いが強かったです」。地元出身者しかいない福井商は人材確保の面で太刀打ちできない。ただ、北野は最後までその言い訳だけはしなかった。

 福井商といえば炎のエンブレム。北野監督就任から2年後の70年にでき上がった。当時部長の平林敏夫が「精神的に何か欠けている」と炎のマークの旗を作り、グラウンドに掲げた。ユニホームの左袖にも縫いつけた。雪をも溶かす「炎のチーム」は激しく燃え、71年に初のセンバツ出場。甲子園36回の黒星は「勲章」とも北野は言う。ただ、甲子園出場だけに満足しない、燃える思いが、県勢を底上げする力になった。(敬称略)【柏原誠】

 ◆福井の夏甲子園 通算53勝73敗。優勝0回、準V0回。最多出場=福井商22回。

福井商を36回甲子園に導いた北野前監督(撮影・柏原誠)
福井商を36回甲子園に導いた北野前監督(撮影・柏原誠)