1通の礼状が、肩とひじ検査へと動き始めた。93年の春ごろ、当時の日本高野連の事務局長だった田名部和裕(現理事)は、知人に紹介した医師にお礼の手紙を書いた。送り相手は、大阪大医学部整形外科の教授だった越智隆弘(現大阪警察病院院長)。田名部は診療の感謝とともに、自らの悩みも記した。

「天理の本橋君と沖縄水産の大野君の姿を見て、これでいいのかなと悩んでいるところです」

天理の本橋雅央は、86年夏の甲子園の優勝投手だった。右肘痛を抱えながら、決勝の松山商戦も完投勝利。早大に進学するも、右肘痛に苦しみ、目標だったプロへの道は閉ざされた。沖縄水産の大野倫は91年夏の甲子園で準優勝を達成。1人で773球を投げ抜いたが、夏の大会後に右肘の疲労骨折が判明し、投手生命を絶たれた。

礼状の送付後、田名部のもとに越智から電話が入った。「大事なことですから、会いましょう」と言われ、大阪市内のホテルの喫茶店で会った。越智がコーヒーを田名部は紅茶を飲みながら、じっくりと話した。最終的に越智らの協力のもと、その夏から、甲子園で肩とひじの検査を始める方向で固まった。

93年8月2日、甲子園球場近くの救護室で検査が始まった。利き腕で鉄亜鈴を持ち、ゆっくり上げる動作ができるかどうかで関節異常を見つける方法で健診。レントゲンは朝日新聞社の診療所で撮った。出場49校、全137投手を対象に検査を実施。炎症などの初期症状が見られたのは28人。もう少し進んだ障害が見られたのは3人いた。

結果を受け、障害予防への動きは加速した。翌年のセンバツから、肩やひじに重大な障害が発生した投手には投手での出場を禁止する大会規定を制定。秋には全国20カ所で専門医による研修会を実施した。また、障害の予防などを指導する「ピッチスマート」を全国の加盟校に配布。95年には理学療法士による大会中のメディカルサポートも開始した。

検査を円滑に進めるために設備も整えた。94年春のセンバツ前に、甲子園球場の三塁側の室内練習場横に「レントゲン室」を新設。費用の約1600万円は阪神と折半した。その春、出場32校、114投手が受診。肩、ひじに炎症のある選手が3人いたが、投球禁止を定めた大会規定に該当する選手はいなかった。

制度面も変わり始めた。94年のセンバツから、ベンチ入りが15人から16人に増加。選手の体調面に考慮し、週1日は練習を休みとする「ゆとりと休養の日」を提唱した。

検査を機に、故障への意識が徐々に高まり始めた。そんな時、悲劇は起こった。95年春のセンバツ、準々決勝の今治西(愛媛)と神港学園(兵庫)との一戦。今治西のエース藤井秀悟(元巨人)は試合中に左肘に違和感を覚え、途中降板した。延長13回の末にサヨナラ勝利を飾ったが、試合後すぐに検査に向かった。医師から告げられたのは、非情な通告だった。(敬称略=つづく)

【久保賢吾】

(2018年4月25日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)