全国高校野球選手権大会が100回大会を迎える2018年夏までの長期連載「野球の国から 高校野球編」の、元球児の高校時代に迫る「追憶シリーズ」第26弾は黒田博樹氏(42)が登場します。甲子園出場がなく、公式戦登板も数えるほどしかなかった上宮(大阪)での3年間。チームで控え投手のままだった右腕は苦しい日々の中でどう過ごし、何を感じたのか-。全10回で振り返ります。

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栄光を積み重ねたマツダスタジアムの記者席で、黒田は言葉を絞り出すように話した。高校時代の3年間に思いをはせ、「走らされていた記憶しかない」と振り返った。フラッシュバックするのは、苦しかった当時の情景ばかり。できれば思い出したくなかったのかもしれない。

広島だけでなく、米国の名門ドジャースやヤンキースでも輝かしい足跡を残した日米通算203勝の大投手も、上宮では3番手投手だった。3年夏は登板さえかなわなかった。無力さとともに味わった悔しさが野球人生の礎となり、糧となり、黒田博樹という投手をつくってきた。出場辞退という予期せぬ形で、甲子園出場がかなわなかった悲運もあった。

黒田 同級生に聞かれると何を言われるか分からないけど、いま考えれば(甲子園に)出られなくて良かったかなと思う。当然、当時は出たかった。でも出なかったから、今の野球人生があると思う。

中学時代まで楽しいと思っていた野球が、高校で一瞬にして楽しくなくなった。練習試合に投げれば制球を乱し、罰走を命じられた。自信もなく、自分を支える実績を積み重ねることができなかった。頭角を現した専大でも、確かな自信を得ることはできなかった。それはプロ入りしても変わらない。広島でエースとなっても、米大リーグで名門の大黒柱となっても変わらなかった。自信がないから常に全力を意識した。「1球の重み」と表現したように、マウンドではすべてをかけて腕を振った。

広島でエースと呼ばれるようになった2000年代から他球団に所属する先輩後輩へのあいさつを避けるようになった。たとえ先輩選手であっても、あいさつに行かないことも増え、後輩からのあいさつも敬遠してきた。オフになれば他球団の選手から食事に誘われる機会もあったが、断った。

黒田 (エースとしての)立ち居振る舞いがある。へらへらするのが嫌だったし、チームの士気にも影響すると思っていた。違うユニホームの選手には敵対心を持って戦わなければいけない。チームメートは守らないといけない。そういう意識が強かった。そうしないとマウンドで目いっぱいインサイドに投げられない。

生きるか死ぬかの世界で生き抜くすべだった。「自分が弱いことを知っているから。それくらい徹底しないとこの世界では、結果を残せないと思っていた」。高校時代に辛酸をなめた経験から、導き出されたスタイルでもあった。

06年に広島でFA権を取得し、高額オファーを受けても、国内他球団への移籍は考えられなかった。移籍が活発な米大リーグでも7年間で所属したのは2球団のみ。黒田の謙虚さは、より良い条件を求めて球団と交渉する代理人には珍しく映り「メジャーリーガーで最も自己評価が低い選手」とまで言われていたほどだ。

甲子園出場がかなっていれば、黒田の野球人生は大きく変わっていたかもしれない。いや、変わっていただろう。本人も認める。

黒田 たぶん変わっていたと思う。でも、そこからおかしくなっていたかもしれないし、野球をやめようと思ったかもしれない。万が一、いい投球をしていたら、そこでプロに入れていたかもしれない。そうなると違う球団でプレーしていたかもしれないし、ここまで野球をできていたかも分からない。全く違う人生だったと思う。

高校時代に日の目を見なかった右腕が、大投手への階段を上がったサクセスストーリーは、多くの高校球児たちに夢を与えるに違いない。(敬称略=つづく)【前原淳】

◆黒田博樹(くろだ・ひろき)1975年(昭50)2月10日生まれ、大阪市出身。「オール住之江」から上宮へ進学。1年秋からベンチ入りするも、3年間で公式戦登板はわずか。3年夏も3番手投手で出番がなかった。専大を経て、96年ドラフト2位(逆指名)で広島入団。01年に初の2桁勝利をマーク。04年アテネ五輪で日本代表として銅メダル獲得に貢献。05年最多勝、06年最優秀防御率のタイトルを獲得。07年オフにFAでドジャースへ移籍し、12年1月にヤンキース移籍。15年に広島復帰、16年のリーグ優勝に大きく貢献した。日米通算533試合に登板して203勝184敗1セーブ、防御率3・51。大リーグ通算79勝は野茂(123勝)に次ぐ日本人2位。現役当時は185センチ、93キロ。右投げ右打ち。

(2017年12月12日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)