上宮での3年で殻を破り切れなかった黒田だが、専大では投手として着実に成長を遂げた。実戦マウンドに上がる機会も増え、3年になったときには、4年の小林幹英(現広島投手コーチ)に次ぐ2番手として東都リーグ1部昇格に貢献した。次第にプロのスカウトにも知られるようになった。最大の武器は真っすぐ。1部に昇格した神宮球場で、黒田の名は一気に広まっていく。

黒田 持ち味でもあったし、コントロールがある投手ではなかったので、まだまだスピードを上げていきたいとは思っていた。アバウトでも押していく投手になりたいと思っていた。

4年になった96年の5月。神宮球場に初めてスピードガンが導入された。前年まで2部でプレーしていた黒田にとってはすべてが刺激的だった。「2部で神宮第2でやっていたときとは全然違う。対戦する大学のレベルも違って、注目度も上がった」。当時1部には青学大の井口資仁(当時忠仁、のちダイエー)や東洋大の今岡誠(のち阪神)ら強打者がそろっていた。

春季リーグが始まったばかりの5月19日の立正大戦。この日もスタンドには多くの大学野球ファンが詰めかけていた。そこには大阪から駆け付けた父一博の姿もあった。1回2死一、三塁、2ストライクから黒田が投じた1球はうなりを上げた。相手打者のバットは空を切り、ミットに収まった。スコアボードの電光掲示板に初めて「150」という数字がともった。スタンドはざわめき、観客の反応で気づかなかった黒田も振り返って掲示板を見た。歴史的な1球の後も黒田は快投を続ける。試合終盤にも140キロ後半を計測するなど球威は落ちず、メモリアルゲームを6安打完封勝利で飾った。

大台計測が1つのターニングポイントとなり、黒田の周辺が騒がしくなった。大学3年時から1学年上の小林幹英(プリンスホテルを経て広島)がプロから注目されていたこともあり、黒田も各球団のスカウトからチェックされる存在ではあった。だが、あの日を境に黒田は注目選手の1人となった。

黒田 プロ入りは大学3年のときにもしかするとと、ちょっと意識し始めたくらい。プロに騒がれる投手が近くにいたことも大きかったと思う。

環境が黒田を変えた。1部に昇格した1年で黒田は投手として1段階も2段階も階段を上がった。そして高校時代には頭になかったプロ野球への道をこじ開けた。どこよりも早く黒田を評価していた球団が、広島だった。スカウトの苑田聡彦は黒田が3年の終わり頃から専大グラウンドに足しげく通った。そんな熱意に黒田はいつしか恩返ししたいと思うようになり、96年のドラフト前に広島への逆指名を決めた。

上宮で我慢の3年間を過ごし、専大で殻を破った。そして広島で、戦う男になっていく。(敬称略=つづく)【前原淳】

(2017年12月20日付本紙掲載 年齢、肩書きなどは掲載時)