北陸の球史を変える左腕になるかもしれなかった。76年夏の小松辰雄(元中日)の剛腕、91年夏の松井秀喜(元ヤンキース)の打棒をもってしても、越えられなかった甲子園4強の壁。それを95年夏のメンバーは越えた。2年生エース山本省吾(元ソフトバンク)が準決勝・智弁学園(奈良)戦で1失点完投勝利。山下智茂率いる星稜(石川)が、全国制覇に王手をかけた。

戦力からすれば、天下取りには物足りないと山下は感じていた。潮目が変わったのは、94年の年末から95年の年明けにかけてオーストラリアで行われた第1回AAAアジア野球選手権大会から山本が帰った後だった。

山下 土産はいらん。その代わりに、代表監督の渡辺さんと阪口監督のミーティングを全部、書き留めてきてくれ。どんなことを話すのか、それだけをメモしてきてくれって言ったら、参加選手18人全員の特徴を書いてきた。山本自身が感じたことが書いてありました。

1年生で高校日本代表に選ばれた山本に山下が授けたミッションは、代表監督の横浜(神奈川)渡辺元智とコーチの東邦(愛知)阪口慶三(現大垣日大監督)のミーティングの内容を一言ももらさず聞いてくること。世界を舞台に戦う当代の高校球界の名将2人が、何を重視し、選手に伝えるのかを山下は知りたかった。だが、山本は監督から求められた以上のものをつかんできた。

95年センバツは準々決勝で、大会を制した観音寺中央(香川)に敗れたが3年ぶり2度目の8強入り。さらにその夏の甲子園で、山本のリポートが好結果につながった。3回戦は大会屈指の左腕と言われた吉年滝徳(元広島)を擁する関西(岡山)との対決。そこで山本自身が事を起こしたのだ。

2回の星稜の攻撃。吉年の失策と与四球から1死一、二塁の先制機をつかんだ。その場面で二塁走者の山本が三盗を決めた。山下から出ていたサインは「待て」。だがエースは、三塁に走り、一、三塁に好機を広げて4点先制につなげたのだ。

山下 思わず「おい、俺、サイン間違えたか!?」ってベンチで声を出したら、横にいた選手が「いえ、待てのサインでした」って言うから、ぼくはショックを受けたんです。

ホームを踏んでベンチに戻ってきた山本に、山下は「省吾、お前、なんで(三塁に)行った?」と問いただした。山本の答えは「僕、オーストラリアで吉年さんと同じ部屋でしたから」。山下は衝撃を受けた。速球に加え、縦のカーブが吉年の武器。ただ、カーブを投げる際、二塁にけん制しないことを山本は頭に入れ、投球の組み立ても考慮した上で三盗を敢行して成功させたのだ。

山下 そのときに僕は、初めて生徒をリスペクト(尊敬)しました。その大会までは、ベスト4の壁をなかなか破れなかった。その壁を破るのは選手だなと思ったんです。選手が僕以上のことをやらないと日本一っていうのはないんだな、と思いました。

新しい日々が始まったような気持ちだった。さらに大会中、新たな衝撃が山下を待っていた。(敬称略=つづく)【堀まどか】

(2018年3月1日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)