18年が明けたばかりの1月6日、5人の男が兵庫・西宮市の阪神球団事務所を訪れた。39年前の夏、甲子園で延長18回の熱戦を演じた箕島(和歌山)と星稜(石川)の元メンバー。箕島の上野山善久、星稜・山下靖の両元主将、悲運の転倒の星稜一塁手・加藤直樹らが球団社長の揚塩健治を表敬訪問した。

10年に甲子園歴史館創設の奉納試合として同社長が甲子園での箕島-星稜戦の「再々々試合」を企画し、同9月23日に開催。闘病中の箕島元監督・尾藤公が最後の指揮を執った。感謝を込めた訪問で、持参した箱から現れたのはまといを担いだ加賀人形。「日本一」のまといの文字に、揚塩は感激した。

11年3月に尾藤がこの世を去った後も、箕島、星稜の交流は続いた。「箕島の親父さんが尾藤さん、星稜の親父さんが山下先生。恩師2人の意思を私たちは引き継いでいかないといけない」と元主将の山下は言う。両校を引き合わせた一戦が「不滅の試合」と言われるゆえんだ。

尾藤と山下智茂の交流は「甲子園塾」にも引き継がれた。若手指導者の育成を目指し、日本高野連が08年に開講。尾藤が初代塾長に就任し、没後は山下が2代目塾長を務める。2人がそろって指導していた時代に、ともに認めた人材がいた。作新学院(栃木)の監督、小針崇宏だった。

山下 彼が来たときに、2人で思わず「おおっ」と言ったんです。「どこから来たの?」と聞いたら作新の監督。「名門を復活させるのは絶対に小針監督しかいないよ」と言いました。彼には何かがありました。

小針は就任3年目の09年、夏は31年ぶりとなる甲子園にチームを導いた。

小針 でも自分としては、今後、その後に大変なことがもっとあるだろうと、そんな思いでいたころでした。

小針は自分の中に、揺るぎないものを育てようと懸命だった。百戦錬磨の尾藤、山下らの世界観を聞きたいと思った。「甲子園塾」の受講資格は原則、甲子園に出ていない指導歴10年未満の教員の監督。甲子園に出た小針は当てはまらなかったが、県高野連の推薦を得ることができ、09年冬に2泊3日の講習に参加した。参加への小針の強い意思を伝え聞いた尾藤と山下は「3日間、離れるなよ」と言った。当時、がんとの闘病を続けていた尾藤は言葉で、山下はノックで、次代に託す思いを伝えた。

小針 練習もそうですが、指導者として自分を磨くこと、選手をいい意味で大事にしていくことを教えていただいた。指導者としての角度、枠が広がりました。希望が持てました。作新の名前はすごく大きい。その名前をもっと大事にして、伝統を継承していかないといけないと。集まった指導者全員に「これからの高校野球を頼むぞ」というお言葉をいただきました。

16年夏の甲子園で、作新学院は54年ぶりに全国を制覇。33歳の指導者は「甲子園塾」塾生初の優勝監督になった。

山下 尾藤さん、喜んでおられるなと思いました。小針君は芯を持っている。自分のスタイルを貫いている。やっぱり俺たちの目に狂いはなかったな、と。

信念、情熱、不屈の魂を共通項に心を通い合わせてきた不滅の交流。未来につながる幸せな出会いが、そこにあった。(敬称略=おわり)【堀まどか】

(2018年3月3日付本紙掲載 年齢、肩書などは掲載時)