古木克明さん(37)の優しい声が響き渡った。

 「ほらっ、危ないでしょう。ふざけないで、ちゃんとやりなさい」

 小学生に野球を教えている神奈川・藤沢市のキッズスクール「PAL-BAL CLASSIC」での一コマだった。

 叱られた子供は一瞬だけうつむいたが、古木さんに肩を抱かれて、すぐ笑顔に戻った。「古木さん」「古木さん」と言って、まとわりついていた。


野球スクールで打撃を指導する古木さん
野球スクールで打撃を指導する古木さん

 優しいコーチだなあと感心していたら、練習の合間に古木さんが近づいてきて言った。


 古木さん(以下、敬称略) 怒っちゃいました。ケガしたら大変なんでね。本当は言いたくないんですけど。


 とても怒ったようには見えなかった。私には、優しく注意しただけとしか思えない。

 ただ、古木さんは今「楽しい野球を伝えていく」ために、さまざまな活動をしている。その観点からすれば、そんな注意すら避けたいのだろう。

 2017年に個人事業として「The Baseball Surfer」(ザ・ベースボール・サーファー)を立ち上げた。将来的には会社設立を目指している。

 野球教室などを展開しながら、自らが理想とする野球チームの創設も視野に入れている。


 古木 スポーツが多様化して野球人口が減っている中で、野球だけ固い感じのままで変わっていない。お金もかかるし、親も当番とか大変でしょう。特別な一部の人だけのスポーツになってしまうのではと思う。誰でも楽しめる部分を伝えていきたいなと思っています。


 チーム創設時のアイデアはたくさんある。一部を紹介してもらった。


 古木 例えばユニホームは買わなくても貸し出しでいい。練習用は黒にしてね。汚れを目立たないようにして、お母さんの洗濯を楽にしてもらうとかね。


 ベースボール・サーファーとは、ハワイ独立リーグに所属していた時代に呼ばれたニックネームだ。古木さんは現役時代からサーフィンをしており、ハワイでも野球の合間に波に乗っていた。


 「大好きなサーフィンをするように、型にはまらず自由な発想で野球という大きな海をsurfしたい。そんな意味を込めて“baseball surfer”を自分の代名詞として創りました」


 ホームページにそう理由を書いている。


野球スクールの窓から国道134号線を見つめる古木さん。遠くに江の島が見える
野球スクールの窓から国道134号線を見つめる古木さん。遠くに江の島が見える

 オリックスから戦力外通告を受けた2009年から8年の月日が流れた。格闘家への転身、野球での現役復帰、ハワイ独立リーグへの挑戦、大学入学…


 古木 すべてに意味がある経験だったと思います。


 波瀾(はらん)万丈の日々を経て、みつけた目標だった。


 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 古木さんは愛知の豊田大谷で頭角をあらわした。2年夏に甲子園に出場し、長崎南山戦で2打席連続のホームランを放った。

 3年夏は1998年、いわゆる「松坂世代」が活躍した甲子園大会だった。

 豊田大谷は1回戦で村田修一、田中賢介らが所属する東福岡に勝利した。2回戦では嶋村一輝、上本達之の宇部商を延長15回の末に破った。サヨナラボークで決着した試合として記憶するファンも多いだろう。

 3回戦では智弁和歌山を、準々決勝では和田毅がエースの浜田に勝った。準決勝で京都成章に敗れたものの、ベスト4と躍進した。

 その秋のドラフトで横浜(現DeNA)から1位指名を受けた。松坂大輔の外れ1位だった。

 スラッガーとして期待され、一時は主軸に定着する活躍も見せていた。08年からはオリックスにトレード移籍したが、09年限りで戦力外通告を受けた。10年間の通算成績は1263打数312安打、打率2割4分7厘、60本塁打、152打点だった。

 2度のトライアウトを受けたが、獲得球団はなかった。古木さんは現役引退を決めた。


2007年3月31日の巨人戦で代打決勝本塁打を放った横浜の古木
2007年3月31日の巨人戦で代打決勝本塁打を放った横浜の古木

 第2の人生として選んだのは格闘家だった。格闘技の新団体「スマッシュ」に入団した。


 古木 現役時代にセカンドキャリアなんて考えていなかったから、真っ白ですよ。当時トライアウトの様子をテレビで取り上げられましたが、映像を見ても目が泳いでいますからね。韓国、台湾、アメリカの独立リーグ…いろいろ探しましたが、金銭的に家族を養えない。そこでもらった格闘技の話に乗ったわけです。


 奇想天外な決断のようだが、そこには戦力外通告を受けた時の心情も影響していた。


 古木 もう野球をやらなくていいんだと、ホッとする思いもありました。ホームランも打てなくなっていましたから。


 格闘家転向の記者会見で、古木さんは「野球に未練はない」と口にしている。

 2年間かけて2試合を闘った。初戦は黒星だが、2戦目に勝利を挙げた。だが、格闘家のキャリアはここで終えた。


 古木 練習がつらいのは覚悟していましたが、『痛い』ということに心が折れたんです。試合前は本当に怖かった。逃げたい思いから、宇宙人が襲ってこないかなとか、会場のさいたまスーパーアリーナが消滅しないかなとか。非現実的なことばかり考えていました。


 再び無職になり、素直な気持ちでやりたいことを考えた。そこで出た答えは「野球」だった。

 古木さんは現役復帰を目指して練習を始めた。


 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 古木 トライアウトを目標にしましたが、自分でも分かっていたんです。まず戻れないだろうと。受かるはずがないと思っていました。でも、野球にチャレンジしたい気持ちになっていたんです。1度離れたから、やっぱり野球って楽しいと思いました。


 かずさマジックで練習させてもらったり、元楽天監督の大久保博元さんの野球スクールで指導を受けた。


 古木 たった1年半のブランクですが、まったくバットを振れないんです。ボクは現役時代にあまり考えずに感覚だけでやっていましたから。でも、今なら練習初日から芯に当たりますよ。格闘技の後にデーブさんのところで学んだからです。感覚にプラスする理論。今の自分はこうだから、こうすればいいんだと考えられます。力の抜き方や、足を使うとはどういうことか。この時に勉強しました。

 基礎を徹底的に学んだ。現役時代も練習熱心だったが、ただ量をこなすだけだった。この時は大久保氏の指導を受け、それを習得するために自主練習を重ねた。どうやったら力を抜けるか。下半身をうまく使えるか。自分で考えながら練習をしていた。


 古木 現役時代はアホみたいに練習すればいいと思っていた。もちろん必死に量をこなす練習も必要ですよ。でも、基本ができていれば何だってできる。ちょっと意識を変えるだけ。自分の強み、弱みを見つけるだけでも違う。体のことを理解したり、相手を知る力をつけたり。ただ練習するだけではなく、こういう意識が足りなかったのかなと。ボクもそうだったけど、大成できない選手は、考える力が足りていなかったのかなと思った。


 11年のトライアウトは予想通り合格できなかった。翌12年も不合格に終わったが、野球への熱は冷めなかった。ハワイに渡って独立リーグに所属した。


 ◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 ハワイでは野球に熱中するかたわら、かねての趣味だったサーフィンも楽しんだ。


 古木 知人に勧められてベイスターズ時代に始めたんです。当時、シーズン中の月曜日に波乗りしていたら、携帯の着信履歴がいっぱいだったことがあった。その当時の監督さんはオフでも練習に来るのが当然という考えでした。ボクは知らないからサーフィンしていて、大遅刻したことがありました。


 同じリーグに元大リーガーのデイン・サルディニャ捕手もいて、彼の自宅にホームステイをさせてもらった。初めて訪れた日、彼の父が言った。


 「Welcome to Baseball surfer」(ようこそ、ベースボール・サーファー)


 このフレーズが気に入り、記憶に残っていた。

 帰国後は事業構想大学に入り、勉強した。その頃から湘南地区に住んでいる。


 古木 ちょっと遠いので家賃は安いし、電車で本を読めます。それに時間があればサーフィンができる。


 2016年に卒業し、かねて構想していた活動に乗り出した。知人の助言を受けながら、野球教室や早朝にキャッチボールをするイベントを開催する。草野球や野球指導に出向く「助っ人・古木」という活動も行っている。


 古木 キャッチボールのイベントは週末に早起きして楽しんでもらい、残りの時間を有意義に過ごしてもらおうとね。野球の技術指導も大切だけど、必ず、楽しさ、喜びを感じてほしいと思っています。野球を嫌いにならずに大人になってほしいんです。


笑顔で引退後の生活を語る古木さん
笑顔で引退後の生活を語る古木さん

 野球を広める活動をしていく上で資金も必要となる。そのために「Baseball Surfer」のロゴが入ったTシャツやパーカーを発売している。

 注文を受けてから古木さん自らの手で作製している。ミシンも購入した。


 古木 タグをつけるんですよ。これが大変なんです。でも、ボクは中学時代に家庭科が得意でした。ミシンも説明書を読まずに動かせましたよ。


 注文を受けたメールに返信し、Tシャツを作り、荷造りして宅配便に出す。すべての作業を手掛けている。


 古木 多くの人にTシャツを着てもらって、一緒に楽しい野球を広めていきたい。野球は本当に楽しいです。


 選手時代は大きな波を逃したのかもしれない。引退後は世間の波に揺られてきたのだろう。しかし、今しっかりと波に乗っている。そんな思いがした。【飯島智則】


 ◆古木さんが手掛けるTシャツについては、ホームページ(https://baseballsurfer.com/)に詳細が書かれています。