62歳のほほえみに、高校生たちは表情を失っていた。第89回選抜高校野球大会に初出場した呉(広島)の中村信彦監督はその様子を振り返り「反応がなかった。(恐怖心で)震えていたんじゃないですか?」と笑い飛ばした。優勝候補の履正社と戦う2回戦を翌日に控えた3月24日。同じ広島の尾道商を3度甲子園に導いたベテランは、教え子にこう語りかけた。

 「10点取られてもええから、思い切ってやろう」

 4万1000人が詰めかけた25日の履正社戦。試合前も中村監督は、報道陣へ珍フレーズを連発した。

 「相手は1、3、4番のホームランに注意。でも、他もシャープ。大変なことになる。ちょっと厳しい。球が変形して、フェンスの前に落ちてくれないかな」

 「10点以内でいってくれればいいですね」

 主将の新田旬希内野手(3年)は後から明かしている。「(監督は)いつもはあんなことを言わない」。これまでは常に、ピリッと張り詰めた空気の中で野球をしてきた。試合は初回から1点を失った。中村監督はベンチに戻ったナインに向けて、語りかけた。

 「1点ずつ取られても9点。大丈夫や」

 ナインは思わず笑っていた。エース池田吏輝投手(3年)は立ち直り、8回1失点。鍛え上げた守備は無失策だった。0-1の敗戦で知った差は、2安打に封じられた攻撃力。指揮官は試合後に種明かしをした。

 「気楽にさせた方がいいかと思ってね。『何とかしたい』と思うと縮こまる。10点と言っていたのが、半分になれば勝機はある」

 球が変形しなくとも、1点に抑えた。「10点取られると思っていて、1点だったら上出来ですわ」。にこやかな中村監督と対照的に、隣ではベンチ入りした女子マネジャーも本気で泣いていた。全員が本当の悔しさを胸に刻み、強力打線に立ち向かった池田は「自分でも通用すると思えました」と力強くうなずいた。

 中村監督は選手へ「土を持って帰るな」と伝えた。07年の創部から10年でたどり着いた甲子園。憧れ続けた場所はこの日、目的地でなくなった。【松本航】