今から55年前、秋田商に165センチの「小さな大投手」がいた。今川敬三さん(故人)は抜群の制球力を持つアンダースロー。1960年(昭35)春のセンバツで4強入りし、そこから4季連続甲子園出場。60年春準決勝・米子東戦での74球(8回)は、いまだに完投最少投球数のセンバツ記録だ。今川と同級生で、バッテリーを組んでいた保坂栄さん(71)は「並外れた何かを持っていた」と話す。

61年センバツ 2回戦の平安戦で先発した秋田商先発のアンダースロー今川敬三
61年センバツ 2回戦の平安戦で先発した秋田商先発のアンダースロー今川敬三

 保坂 当時は全県から「エースで4番」が秋田商に集まりました。同級生は最初は60人ぐらいで、残ったのは10数人。投手じゃないのは私だけでした。今川はランニングでいつも後方を走り、目立ちたがらないタイプ。1年夏まで打撃投手を務めたのですが、コントロールが良くて、打たれても打球が飛ばない。そこに(古城敏男)監督は何かを見いだしたんでしょうね。新チームになった時に、今川を上手から下手投げに変えさせました。グラウンドのすぐそばに元秋田商監督の赤根谷(飛雄太郎)さんの自宅があり、その庭のブルペンで練習しました。赤根谷さんが私の後ろに腰かけ、ステッキでミットを押さえて「動かすな」と言う。今川はそこに投げられないと、自分でボールを拾いにいきました。その繰り返しです。

 そうして磨いた制球力が今川の武器だった。直球にスライダー、カーブ、胸元に伸びる、沈むの2種のシュートを交え、コーナーをついた。4度の甲子園で8戦に登板し、うち2試合が無四死球、5試合がわずか1四死球だった。だが、強みはコントロールだけではない。「丸太のような」太い腕を持ち、パワーもあった。

 保坂 いつでも打てるようなボールに見えるらしいけど、球威、キレがありました。打者のひざ頭あたりからぐっと伸びて、パーンと、ミットに手応えがあった。当時はお下がりの丸くて薄いミットだったから、痛くて痛くて。ミットと手の間にスポンジを入れていました。今川には「保坂、音が響かないじゃないか。面白くない」と言われましたよ。

 60年春、準々決勝の相手は優勝候補筆頭の慶応(神奈川)。後に南海入りする右腕渡辺泰輔を擁し、バッティングも1回戦で21安打と好調。今川は慶応打線をシュートとカーブでうまくかわし、延長11回の末、2-1で完投勝利した。

 保坂 質のいいボールだから、打たれてもつまった当たりか、凡フライになるんです。(慶応)渡辺が今川が亡くなった後に、墓参りに来たのですが、「もう1回試合してもやっぱり打てないだろうよ」と言っていました。

秋田商・今川投手の甲子園成績
秋田商・今川投手の甲子園成績

 今川は早大卒業後、秋田に戻り、67年に母校の監督に就任。70、75年夏の2度甲子園出場に導いた。だが76年6月17日深夜、実家の大館市に向かう途中、センターラインを越え、対向車線のトラックと正面衝突。33歳の若さでこの世を去った。翌日の地元紙「秋田魁新報」の見出しは「今川監督、居眠り運転で死ぬ」。当時、秋田銀行郡山支店(福島)に勤務していた保坂さんは、知らせを受け、すぐに秋田へ向かった。

 保坂 あまり見られませんでした。69年に自分が結婚式を挙げた時、あいつは練習を終え、秋田商ユニホームのまま来ました(笑い)。それだけ飾らないやつだった。今でも仲間と集まると「今川がいなかったら甲子園に行けなかった。引っ張ってもらった」と話します。(敬称略)【高場泉穗】