栃木・作新学院の江川卓が一身に注目を集めた73年夏、全国を驚かせたのが初出場盛岡三(岩手)の快進撃だった。「さわやか旋風」とも呼ばれた同校のマウンドに立ち続けたのは172センチのエース小綿(こわた)重雄投手(現在59)。右横手からの打たせて取るピッチングで当時県勢初となる2試合連続の完封劇をやってのけた。

73年8月、高知商戦で力投する盛岡三・小綿
73年8月、高知商戦で力投する盛岡三・小綿

 甲子園のマウンドを、小綿は楽しんでいた。172センチ、62キロの細身の体から投げる球は、最速で「110~120キロぐらい」。だがコントロールには絶対の自信があった。

 小綿 全国レベルってすごいなと。あの球を打たれるんだな、と。試合中なのに、いちいち感動ばかりしていたのを覚えています。

73年夏1回戦から3回戦のスコア
73年夏1回戦から3回戦のスコア

 初戦で八代東(熊本)と延長11回を戦い1-0サヨナラ勝利した。2回戦でも藤沢商(神奈川)を1-0。ともに被安打は9。毎回のようにランナーを背負いながら、シュートに2種類のカーブで連打を許さなかった。計20イニング無失点、2試合連続完封は岩手県勢初だった。

 小綿 完封というと普通は投手の栄誉かもしれませんが、我々の場合はそのままの意味で「みんな」で完封したんです。僕は打たせるのが仕事。野手は守るのが仕事。全員そういう意識でした。

 実はサイドスローにしたのは、夏の大会まであと2カ月もない、春の県大会1回戦敗退の翌日。前年秋に就任した村田栄三監督の指示だった。仙台一中や青森など、それまでに東北地方の3校を甲子園に導いていた名将だ。

 小綿 驚きました。間に合うのか、と。でも数日指導を受けながら投げてみると、面白いようにキャッチャーが構えたところに行くんです。無駄な四球が多いのが僕の弱点でしたが、それが確実に改善した。すごい監督だと思いましたね。

 目指したのは守りのチーム。普段の練習も守備だけの日が多かった。小綿はその中心として、横手から球を散らしゴロを打たせることに徹した。投球は常に「七、八分の力」。奪三振は考えなかった。

 小綿 1回戦は三振ゼロ。でも併殺が3つありました。僕はもともと球威はない。必ず誰かのところに打球がいくことが分かっているから、野手は常に緊張感を持っているんですね。本当に守りだけはしっかりしたチームでした。

 高知商との3回戦は1-1から延長に突入。14回まで戦い、最後は2死一塁から三塁打を浴びて終戦した。3試合、すべて1点差のゲームを戦い抜いたナインにはスタンドから大きな拍手が送られた。

 小綿 泣きましたね。悔しさじゃなくて、もう野球が出来ないんだと思って。当時は上(大学)で野球を続けるなんて考えてませんでしたから。

 だが甲子園がその後の人生を変えた。1浪して慶大に合格すると迷いなく野球部に入部。サイドからオーバースローに戻し、エースとして東京6大学リーグで活躍した。

 小綿 当時明治に鹿取(のち巨人)がいてね。サイドなのにすごい球を投げるんです。これじゃ大学では通用しないな、と上手投げに戻した。監督には「お前、横じゃなかったか」と言われましたが(笑い)。

 社会人の岩手銀行では都市対抗にも出場。兼任監督を経て34歳で引退するまでの投手生活で、横手だったのは結局、あの年だけだ。

 小綿 不思議ですね。でも甲子園があったから、ずっと野球を続けてこられた。もうすぐ60歳になる今思っても、夢のような舞台だったと思う。

 現在は銀行マンとして勤務するかたわら、地元企業の軟式野球部の指揮を執る。ひと夏だけのサイドスローから始まった小綿の野球人生は、今も続いている。(敬称略)【石井康夫】