1973年(昭48)春、初出場の日大山形は1回戦で境(鳥取)を5-2で破り、春夏通じ14度目の挑戦にして県勢初の甲子園勝利を挙げた。その夏も初戦で鹿児島実を2-1で下し、県勢夏初勝利。いずれも完投したのは2年生左腕エース熊谷篤彦(現在58)だった。

73年3月、境を下し山形県勢センバツ初勝利した日大山形の熊谷篤彦(左)ら
73年3月、境を下し山形県勢センバツ初勝利した日大山形の熊谷篤彦(左)ら

 「選抜の孤島にようやく春」。73年3月31日、日刊スポーツ1面に掲載された日大山形の勝利を報じる見出しだ。エース左腕熊谷は、右打者の膝元に落ちる得意のカーブで毎回13三振を奪い、山形県勢初の勝利投手となった。

 熊谷 初めての甲子園で緊張していたけど、なぜか負ける気はしなかったんです。試合前日の練習のブルペンで渋谷(良弥)監督がつきっきりで後ろから見てくれて、ほぼ狙ったところに投げられた。「クマ、明日は勝てるぞ」と言われた記憶があります。

 試合の最中、故郷では両親がラジオに耳を傾けていた。父三雄、母たいは共に目が不自由な整体師。自宅から自転車で50分もかけ学校へ通う息子を熱心に応援してくれた。センバツ出場が決まると2人は体をさすり、涙を流してくれた。

73年春1回戦のスコア
73年春1回戦のスコア

 熊谷 甲子園に行く前に、地元の(山辺)町で壮行式をやってくれて、そのお金で新しいグローブを買いました。親には負担もかけたし、いっぱい苦労をかけました。

 家族や、地元へ大きな1勝を届けたが、続く2回戦では天理(奈良)打線にカーブを狙われ、1-12で敗れた。

 それまで山形県は、全国47都道府県で唯一センバツ出場がなかった。当時の東北のセンバツ出場枠は1つ。狭き門を、なかなか突破することが出来なかった。だが72年、後に春夏22度の甲子園を導くことになる渋谷良弥監督(現山形商監督)が日大山形に就任。若き監督の厳しい練習に耐えたナインは、その秋の東北大会1回戦で双葉(福島)、準決勝で東北(宮城)、決勝で仙台育英(宮城)と強豪を次々破り、センバツ出場を当確させた。

 熊谷 春に初めて監督が来た時「何でみんな、こんなに体力がないんだ」と言われました。グラウンド整備で、少しでも硬いところが残ると先生に怒られる。投手陣は「走っておけ」と言われるだけで、制限なく走りました。本当につらかった。監督が1年目で勢いがあって、僕たちはそれに付いていった感じでした。

 センバツ後、熊谷はスランプに陥った。肘を思うようにひねることが出来ず、ストライクが入らない。練習試合でも投げさせてもらえず「野球をやめようと思った」と振り返る。だが、夏の山形県大会決勝鶴岡商戦で散発3安打完封勝利。見事に復活して、2季連続の甲子園出場を果たした。初戦で鹿児島実に1失点完投勝利。県勢夏14度目にして初めての白星だった。

 熊谷 夏は、センバツよりリラックスして、楽しかったです。この2年生の夏が集大成で最高の投球だった。同級生には悪いことをしたと今でも思います。

 肘の故障が治らず、3年時の春夏甲子園出場はかなわなかった。社会人チームからの誘いがあったが「この肘では通用しない」と、卒業後は地元で就職し、50歳まで草野球を楽しんだ。

 山形県初勝利から42年。13年夏に日大山形が4強入りするなど「野球不毛の地」と言われ続けた山形は、今変わりつつある。

 熊谷 山形のレベルはもっと上がっていくと思います。甲子園は夢のまた夢の場所だったけど、あそこは本当に気持ちがいい場所。また行きたいですね。(敬称略)【高場泉穂】