1997年(平9)夏、初出場の光星学院(現八戸学院光星)山根新主将(現在35)が、1回戦佐賀商戦で大会史上8本目となる先頭打者本塁打を放った。当時、47都道府県で春夏通じ本塁打がなかったのは青森県だけ。試合は9-10のサヨナラ負けだったが、歴史的アーチを甲子園に残した。

97年8月9日、佐賀商戦で先頭打者本塁打を放つ光星学院・山根新
97年8月9日、佐賀商戦で先頭打者本塁打を放つ光星学院・山根新

 相手投手の球種を見ようとフルカウントまで粘った。先頭打者としてとにかく塁に出る。その思いで、高めのストレートを強く振り切った。

 山根 打った瞬間、上がりすぎた、と思ったんです。でもレフトに入った。二塁をまわる時、した方がいいかな、と思ってガッツポーズしたのを覚えています。その春のセンバツでは3番でノーヒット。夏にかけて(金沢成奉監督に)こっぴどく言われて急激に打撃が伸びたんです。試合前の練習で「(バットの)芯に当たらんでも、へたしたら…」と言われていました。

 これが青森県勢初のホームラン。1926年(大15)の12回大会に八戸中が初参加して以来、春夏合わせ46校目の悲願達成だった。

 試合は打撃戦にもつれこんだ。9回表に1点を勝ち越すも、その裏にエース児玉真二が打たれ、逆転サヨナラ負け。内野手兼投手の山根は1番一塁で先発し、2回途中から4回1/3を投げ4失点で降板。最後は再びエースにマウンドを譲った。

 山根 あいつ(児玉)は一番練習していただろうし。負けても、悔いはありませんでした。

97年夏1回戦のスコア
97年夏1回戦のスコア

 その5年前、光星学院は県大会未勝利の弱小チームだった。学校が野球部強化に取り組んだのは93年。監督に東北福祉大卒の津屋晃、コーチに現監督の仲井宗基が招かれ、94年夏の青森大会で準優勝。それをきっかけに県外から次々と部員が集まった。山根も大阪から甲子園を目指して青森・八戸にやって来た1人だった。96年夏、3年連続で進んだ決勝で負け投手となったのが2年生の山根だった。

 山根 2日間ぐらい寝込んで、そこで自分を見つめ直しました。野球ノートを細かく書くようになったり校庭のゴミを拾うようになったり。そういうところから徹底的に変えました。野球をやるのは自分ですから。

 主将になったその秋、新たに金沢成奉(現明秀日立監督)が監督に就任。東北大会で優勝し、センバツに初出場。だが、優勝候補で臨んだ夏の大会は、簡単にはいかなかった。

 山根 青森を勝つことより、甲子園で1勝したかったので、とにかく追い込んで追い込んで。試合前の調整などありません。体がボロボロになりました。自分も県大会中にクロスプレーで左膝の靱帯(じんたい)を伸ばして。仲井さんが「本当は飲みに行きたいんだけどな」と言いながら、寝ずにアイシングしてくれました。

 主将として光星学院の春夏初出場をけん引したが、1勝は遠かった。現在、全国屈指の強豪となった母校の活躍を「うれしい半面、悔しい」と笑って話す。高校卒業後は専大を経て、佐川急便軟式野球部でプレー。高校時代のマネジャーである青森県出身の由佳と結婚し、1男2女をもうけた。

 山根 ホームランボールは、野球を熱心に応援してくれた先生の棺(ひつぎ)におさめました。もうないんです。

 全国で一番遅い「青森1号」。その記録は甲子園の歴史にいつまでも残り続ける。(敬称略)【高場泉穂】