仙台育英(宮城)のエース右腕・佐藤由規(現ヤクルト)は、2年生だった06年夏から3季連続で聖地のマウンドに立った。3年夏の智弁学園(奈良)との2回戦では、4回裏に甲子園のスピードガンで最速の155キロをマーク。全国に衝撃を与えたが、重圧や葛藤と闘っていた。

07年8月15日、智弁学園戦で力投する仙台育英・佐藤由規
07年8月15日、智弁学園戦で力投する仙台育英・佐藤由規

 07年8月15日、甲子園に伝説が生まれた。智弁学園戦の4回裏、カウント1ボール2ストライクから由規が投じたストレートは、浮き上がるように捕手のミットに突き刺さった。スコアボードに「155キロ」と表示されると球場全体が「うおーっ!」とどよめき、実況アナウンサーも思わず「えっ」と声を上げるほどの衝撃だった。13年夏に済美(愛媛)の安楽智大(現楽天)に並ばれたが、今も記録は破られていない。8年前の感触は、現在も鮮明に残っているという。

 由規 三振を取りに行った球だったので力の入れ方は違ったし、指にかかった感触はありました。スコアボードは見たけど、155キロ出たことよりも球場の歓声に鳥肌が立ちましたね。

 入学当初は球速130キロ前後で控え三塁手だった。1年秋には140キロまで伸びた。3年間で25キロの球速アップを実現した裏には、並々ならぬ努力があった。

 由規 とにかく投げましたね。投げ込んだ数に関しては、今後超える選手が現れない自信があります。投げないと心配だったので、1日100球は当たり前でした。夏の大会前は暑い中で200球とか。今考えたら「よく投げたなぁ」って思いますけど(笑い)。先生(佐々木順一朗監督)には「まず休みを作れ」と言われるくらいでした。

 甲子園デビューとなった2年夏、初戦で徳島商から11奪三振。2回戦の日大山形戦では145キロをマークして全国に名を知らしめたが、想像もしていなかった苦悩が待っていた。

 由規 見られ方がガラッと変わって、周りばかり気にしていましたね。いま思えば、自分に集中できていなかった。抑えて当たり前、スピードも出て当たり前という周囲の目と戦っていた気がします。自分では調子が悪くないと思っても、スピードを目安にされて「調子が良くないのでは」と言われた。抑えることより「球速を出してナンボ」という気持ちに変化しつつあったのかもしれない。3年生の夏も調子が上がらず苦しんで、良くならないまま甲子園に行けた感じです。

 重圧の中、3季連続で大舞台に導いた。通算5試合のうち4試合で2ケタ奪三振。歴代最速の155キロも強烈な印象を残したが、野球人生を変えたのは3年春のセンバツだったという。

 由規 常葉菊川(静岡)戦の1週間前、練習試合でデッドボールが当たって左手を骨折したんです。痛いけど、自分が投げるしかない。逃げるのは簡単じゃないですか。試合は負けましたけど、どんな状況でも言い訳せずにマウンドに立つのがエース、という責任感が初めて生まれました。

 プロ4年目の11年に東日本大震災が発生した。右肩の故障にも見舞われた。1軍マウンドから遠ざかること3年以上。甲子園で芽生えた自覚と地元東北への思いを胸に、復活への道のりを歩んでいる。

 由規 3年も投げてなくて、いろんな人に心配や迷惑をかけてきた。不安で仕方なかった時期もあったけど、今は投げれば投げるほど不安がなくなっていくんです。高校の時と同じような心境かもしれない。一生懸命やるのは当たり前。その中で、どれだけ自分が「やった」と思えるか。(甲子園を目指す球児には)悔いなく力尽きるまで、自分のやりたいことを目いっぱいやってほしいですね。【鹿野雄太】