1勝まであとアウト5つだった。1993年(平5)、初出場の岩手・久慈商の夏は歴史的な逆転劇で幕を閉じた。初戦の徳島商戦で7-0と大量リードの8回裏1死から同点に追いつかれ、続く9回裏サヨナラで涙した。151球を投げ抜いたエース左腕宇部秀人投手(現在39)は「甲子園は何が起こるかわからない」と振り返る。

93年8月、徳島商戦で力投する久慈商・宇部
93年8月、徳島商戦で力投する久慈商・宇部

 やっぱり甲子園には「魔物」がすんでいた-。宇部はそう思ったという。

 初出場の久慈商は初戦2回戦で、四国の強豪徳島商と対戦。のち中日エースとなる右腕川上憲伸を打ち込み、8回表まで7-0と大きなリードを奪った。

 宇部 みんな初めてなのに硬くなることはなかったですね。ただ自分の中では、このまま終わるわけがないという気持ちはあった。それまで打たれないのが不思議なくらいでしたから。

 3回から左肩に違和感があった。県大会6試合50イニングを1人で投げ抜き、乗り込んだ甲子園。「重いというか痛いというか。確かに疲れもあったのでしょう」。持ち球は伸びのある130キロ超のストレートを主体にスライダー、シンカー。だましだましコースをついてアウトを重ねたが、回を追うごとに球が上ずり始めたのは実感していた。

 悪夢は8回裏1死からだった。相手2番の左中間二塁打を皮切りに左前、中二2本、中前打2本と6連打で4-7。2死とした後もさらに連打を浴び、1イニングで7失点。ここまで打ち込まれたのは投手となった小5以来、初めてだった。

 宇部 あの回のことは本当によく覚えていないんです。今思えばどこかで「間」を取れればよかったんですが、その取り方が分からなくて。早い回に一塁走者をけん制をした時、審判から「余計なけん制はしないように」と注意されたんです。こっちは田舎の子だから、ああ甲子園ではけん制してはいけないんだと素直に思い込んでしまった。プレートを外してひと呼吸置くこともできず、単調に1、2、3で投げる。打たれる。そんな状態でした。

 8回は何とか同点にとどめたが、9回裏1死一、二塁からの151球目。サヨナラ打を浴びた。スライダーだった。

 宇部 悔しさというより、ただ、ああ終わったなと。自然に涙が出てきましたね。みんなに申し訳ない気持ちもあったのかもしれません。

93年夏、2回戦のスコア
93年夏、2回戦のスコア

 だが畠山清志監督は試合後、言った。「宇部がいたからここまでこれた。彼が打たれれば仕方ない」。創部14年の久慈商を、秋春夏と3季連続で県初Vに導いた絶対的エースは最後までマウンドに立ち続けた。

 宇部 当時のメンバーは今もほとんど久慈にいます。今はみんな親世代になって難しいですが、数年前までは試合があった8月15日に集まってね。日本にとっては終戦の日だけど、おれらにとっては高校野球が終わった終戦記念日だなって話してました。

 卒業後は都市対抗を目指して地元・宮城建設で野球を続けたが、甲子園以来の左肩の故障で2年後にはユニホームを脱いだ。現在も、地元少年団のコーチなどで野球には携わる。

 希望がある。今春、長男が久慈高に入学。野球部員として甲子園を目指した戦いをスタートさせた。ポジションは投手。同じ左腕。

 宇部 高校に入ってしまえば監督さんにお任せしているので、私は何も言うつもりはありません。もちろん親としては頑張ってくれればうれしいですが。

 久慈地区のチームはあの93年以来、聖地の土を踏んでいない。岩手NO・1左腕として挑み、目前で逃げていった甲子園1勝。その思いを宇部は今、息子たち、次の世代に託している。(敬称略)【石井康夫】