1972年(昭47)3月31日、センバツ大会に2年ぶり3度目出場の東北(宮城)は奈良工を3-0で下し、初戦を突破。試合後、報道陣に囲まれたのは1安打完封のエース岡嶋敏彦ではなく、2年生の「左利きの二塁手」佐藤順一(現在60)だった。

72年3月、7回裏奈良工1死一塁、米田(右)の二塁盗塁をアウトにする佐藤(中央)
72年3月、7回裏奈良工1死一塁、米田(右)の二塁盗塁をアウトにする佐藤(中央)

 佐藤 びっくりされましたね。お立ち台に呼ばれて行くと、インタビューする方が70、80人いました。タイムリーを打ったとかではなく、自分のところに相当ゴロがきた。それを全部うまくさばいたからです。

 甲子園での左利き二塁手は、27年のセンバツを制した和歌山中の土井寿蔵以来2人目。左利きだと、捕ってから一塁へ送球するまでに1度体の向きを変え、併殺を狙う際には回転して投げなければならないなど、リスクが高い。その上、佐藤が公式戦で二塁を守るのはこの試合が初めてだった。だが、8回の守備では3連続でゴロを処理。177センチと長身の佐藤は、軽やかな身のこなしで甲子園を沸かせた。

 投手希望で東北に入学したが、元来の器用さと打撃センスを買われ、1年秋に竹田利秋監督から二塁手に抜てきされた。

 佐藤 最初は嫌でした。甲子園に出るための「パフォーマンス」と受け止めていました。でも卒業してから竹田先生に理由を聞いてみると「お前が要を守れば締まるし、いいチームになると思ったんだ」と言われました。でも練習は人の3、4倍、いや5倍はやったかな。

 練習での個人ノックに加え、家でも暇さえあれば足の運びや回転スローイングの動きを繰り返した。

 71年夏、1つの甲子園切符をめぐり戦った東北大会準決勝で東北は「小さな大投手」こと田村隆寿擁する磐城(福島)に2-6で敗れた。その磐城が甲子園で準優勝。それが東北ナインに火をつけた。

 佐藤 休みはお正月の三が日だけ。練習して相当強くなりました。秋の東北大会では敵なしだった。竹田先生から「1、2回戦はどうでもいい。絶対決勝に行けるから、そこを頭に入れておけ」と言われていたほどです。

 準々決勝で優勝候補だった倉敷工(岡山)を5-1で撃破。続く日大桜丘(東京)との準決勝は「田んぼの中でやっているような」どしゃ降りの激闘となった。2-2で迎えた9回裏無死一塁、日大桜丘がヒットエンドランをかけ、東北の須田邦雄左翼手が打球をあわてて三塁へ投げるも悪送球。無死二、三塁のピンチを作ってしまった。

 佐藤 みんなで円陣を作り「雨だからここが勝負だ」と。すると次の打者に初球でカーンとやられました。力は互角。どちらに転んでもおかしくない試合でした。

 その夏も甲子園出場したが、佐藤は一塁を守った。2年春のセンバツが、最初で最後の二塁守備となった。

 佐藤 いい後輩が伸びてきて、一塁に変わったんです。3年生の時は、主将だったので監督から「一塁から全部を見てくれ」と言われていた。やらせてもらえるなら、セカンドをずっと出来たんですが。

 高校卒業後は、仙台鉄道管理局(現JR東日本東北)で8年間一塁手としてプレーした。3年前、胃がんを患い、さらに大腸も手術。前に着ていたシャツが余るほどやせ細った。「普通の人だったらダメだったけど、野球をしていたから大丈夫だったのかな」と笑う。現在、東北高校野球部のOB会長。「優勝旗を持ってきて欲しい」と後輩を応援し続けている。(敬称略)【高場泉穂】