青森・鰺ケ沢監督の大湯輔(たすく)さん(36)は甲子園史上初の左利きの三塁手だった。1996年(平8)夏の甲子園に弘前実のレギュラーとして出場。初戦で福井商(福井)に敗れたが、野球の常識を打ち破ったポジションを見事にこなし、注目を集めた。あえて起用してくれた恩師への思いが、大湯さんの人生を変えた。

96年8月 弘前実-福井商戦で左利き三塁手として出場した弘前実・大湯輔(右奥)
96年8月 弘前実-福井商戦で左利き三塁手として出場した弘前実・大湯輔(右奥)

 大湯は小学校時代から左利きの三塁手だった。最初は特に意識はしていなかった。中学時代後半から、周囲が騒ぎ出した。試合では観客席から「ポジションが違うだろ!」などとヤジが飛んだ。負けずに三塁手をこなし、弘前実では1年秋からレギュラー。3年夏に甲子園の土を踏んだ。

 大湯 甲子園では公式練習の時から報道陣の取材攻めに遭いました。自分を撮影するカメラの多いこと。シャッター音が「バシャバシャ」とものすごくて。「そんなに珍しいか。自分では普通なのに」と思いました。プレーそのもので注目されたかったんです。

 あこがれの甲子園。試合では最初、さすがに緊張した。守備でファウルフライの打球を見失った。だがフェアの打球は三塁ゴロ2つを無難にさばき、アウトにした。左利きでも三塁手のポジションを立派にこなせることを証明した。甲子園100年の歴史で、これまで左利きの三塁手は大湯と00年那覇(沖縄)の金城佳晃選手の2人だけだ。

 大湯 左利きの二塁手、遊撃手は併殺プレーなどで難しいが、三塁手はできます。捕球から送球まで時間がかかり不利だが、自分は浅く守ることでカバーしました。三遊間の打球は逆ハンドになるが、流れでできるんです。むしろベースラインの打球が難しかった。自分は捕球したら左足を踏み出し、体を回転させてスローイングした。コーチに「やめろ」と言われたが、無視しました(笑い)。

96年夏1回戦のスコア
96年夏1回戦のスコア

 弘前実で大湯にそのまま三塁手をやらせたのが外崎忠彦監督(故人)だった。当時はサッカーが台頭し始め、野球人口の減少が懸念されていた。「左利きの三塁手が野球のセオリーに反するのはわかっている。だが左利きの選手のポジションが限定されるのを打破したい。選手の可能性を広げたい」が理由だった。

 外崎は木造を1度、弘前実を4度、夏の甲子園に導いた。後に深浦(現木造高深浦)の校長を務め、大湯を監督に招いた。高校野球ワースト失点記録(98年青森大会、対東奥義塾の122点)の野球部の強化を師弟コンビで進めた。晩年は母校東奥義塾の監督を務め、再び甲子園を目指していた。11年10月、65歳で死去した。

 大湯 あんなすごい人はいない。野球だけでなく人生について教えてくれた。言葉に力があり、聞いているだけで引き込まれる。今もほとんど外崎先生の言葉の中で生きています。あの人に出会わなかったら指導者になっていなかった。人生が変わった。

鰺ケ沢監督として指揮を執る大湯監督(14年夏の青森大会)
鰺ケ沢監督として指揮を執る大湯監督(14年夏の青森大会)

 大湯は指導者として名久井農、深浦、三戸を経て12年から鰺ケ沢の監督。部員不足に悩みながら指導を続ける。左利きの三塁手を練習と工夫で貫いた経験と恩師の信念が、今も大湯に生きている。(敬称略)【北村宏平】