1967年(昭42)、日大卒業後、福島県南部の石川町にある学法石川高に赴任した柳沢泰典監督は、弱小だった同校を春夏通じ11度甲子園に出場する強豪に育て上げた。だが、総監督になって3年目の1999年(平11)夏の甲子園。スタンドで応援している最中にくも膜下出血で倒れ、そのまま54歳でこの世を去った。そばで支えてきた妻幸子さん(69)は「情熱の人だった」と振り返る。

 柳沢は31年務めた監督を退くと、妻幸子と毎晩愛犬の散歩をした。今までゆっくり取れなかった夫婦の時間。話は尽きなかった。99年、しし座流星群が瞬く6月の夜。隣で歩きながら夫が漏らした言葉は幸子の胸に深く刻まれている。

 幸子 歩きながら「俺は60まで生きない。自分のことが分かる」って言うんです。「監督をやって喜びは2倍、苦しみも2倍、悲しみも2倍だったから悔いはない」と。空に向かって「俺はお前には迷惑をかけない」と何度も言って。「また始まったなぁ」と思っていました。

 2カ月後、6年ぶりに学法石川は夏の甲子園に出場する。柳沢はその夏で総監督を辞すつもりだった。岡山理大付との試合を前にした8月14日早朝、甲子園の入り口で、応援に来た1人1人に今までのお礼の気持ちを込め、頭を下げた。だが、応援していた4回途中スタンドで倒れ、そのまま病院へ搬送された。石川町で連絡を受けた幸子は、冷静だった。

 幸子 新幹線で向かいながら「なんでお父さんは、自分の人生が分かったの」と思っていました。病院で、心臓が弱って、臓器が弱って9日間。決勝戦が終わった夜に亡くなりました。次の日、甲子園球場に寄って、「2度と来ることはないよ」とお別れして、石川町に帰ってきました。

 「苦の中に光あり」。座右の銘そのものの人生だった。横浜出身。67年、日産自動車野球部の内定を蹴り、人口2万人弱の町の私立高校に赴任した。全校生徒の前で「僕は甲子園に行くために来ました」とあいさつすると、失笑が起きたという。

 幸子 最初は13人しか部員がいなくて。その時の校長先生にも「きみ、県南大会で勝ってくれればいい」と言われたそうです。

 地区大会でも勝てない生徒らに基礎をたたき込み、有望な県内の中学生のリクルートも始めた。だが、当時やんちゃで知られた学法石川に生徒を呼ぶのは難しかった。どこに行っても、玄関先で断られた。

 幸子 グラウンドで練習が終わった後、生徒さんの家に車で行き、帰ってくるのは夜中。それを何度も繰り返しました。いわき、福島、会津、いろんなところに行きました。まず、情熱ですね。

 預かるといっても下宿屋はない。一軒家を借り、結婚する71年まで多い時で7人の面倒を見た。少しでも早く温かいものを食べさせようと当時高級品だった電子レンジを月賦で買い、実家の母親に電話でレシピを聞き、お弁当を含めた3食分を作った。

 そうして、徐々に生徒が集まり、チームは強くなっていった。70、71年夏は準決勝、72年から3年間は決勝で敗退。75年秋、翌年のセンバツ出場を決定づける東北大会優勝を果たしたナインを待ち受けたのは、町を挙げた大パレードだった。甲子園に春3度、夏8度出場し、通算4勝11敗。甲子園で勝てず、家のガラスが割られ、抗議の電話が鳴りやまないこともあった。

 幸子 「こんな思いをして、どうして野球の監督続けていられるの」と聞いたことがあって。「高校野球が、好きだから」と。純粋に野球が好きだったのね。今でも、よく生徒さんたちがお盆に来ます。そうすると、10年、20年前の話をするわけ。彼らはいま試合をやって帰ってきたように、みんな覚えているの。すごいなぁ、と思って。

 学法石川はあの夏以来、聖地から遠ざかる。柳沢は町内にある乗蓮寺に眠り、今も学石ナインを見守り続けている。(敬称略)【高場泉穂】