ノースアジア大(秋田)の嶋崎久美監督(67)は金足農監督として甲子園に春2度、夏5度の出場に導いた。特に1984年(昭59)夏は初出場でベスト4進出。準決勝で前年優勝などの強豪PL学園(大阪)に2-3で惜敗したが、甲子園の名勝負といわれた。無名選手が猛練習で力をつける「雑草軍団」金足農を率いて、東北の球史に一時代を築き上げた。

 快晴の甲子園に異様なムードが漂った。84年8月20日、夏の準決勝第2試合だ。PL学園は桑田真澄、清原和博(ともに当時2年)を擁した黄金時代。無名の秋田の農業校金足農が7回まで2-1とリードした。だが8回裏に桑田に2ランを打たれ、逆転負けした。

嶋崎監督
嶋崎監督

 嶋崎 1死後、4番の清原を四球で歩かせた。最も怖い打者でしたから。まさか桑田にホームランを打たれるとは。6回の守りでエラーで1点を与えたのと、8回の攻撃で追加点を取れなかったのが響きました。8回は2死二塁で4番長谷川寿が右前打を打ったが、当たりが痛烈すぎて走者は三塁止まり。ホームにかえれなかったんです。

 この年センバツで初の甲子園出場。初戦を突破し、2回戦で岩倉(東京=優勝校)に健闘、4-6で敗れた。夏の秋田大会決勝は大苦戦。能代に8回まで3-5のビハインドから逆転した。夏の甲子園で初戦の相手は広島商。高校野球のお手本といわれた名門だ。だが下馬評を覆して金足農が6-3で勝利。まずここで甲子園をあっといわせた。

 嶋崎 うちは春の東北大会(優勝)で7本塁打を打ち、長打力もあった。だが広島商戦では相手の得意技を逆手に取り、バント、スクイズで得点を重ねた。バント、スクイズの練習はかなりやっていたから、自信はありました。結局PLに敗れ、決勝進出はできなかったが、甲子園のスタンドが1球1球にどよめいたのを覚えています。

 嶋崎は金足農-秋田相互銀行(現北都銀行)と捕手で活躍。72年に母校金足農の監督に就任した。一時転任したが通算34年間監督を務め、95年夏の甲子園でもベスト8進出に導いた。

 秋田は少年野球も盛んだが、中学の有力選手は農業校にはなかなか集まらなかった。猛練習で力をつけるしかなかった。冬は毎年、田沢湖の山で1週間の合宿を行った。深い雪をラッセルして上り下りや体育館でトレーニング。そのハードさから「地獄の田沢湖合宿」といわれた。

 甲子園に初めて出たセンバツの初戦で、試合前シートノックの残り1分に、ナインに正座、黙想をさせてスタンドを驚かせた。

 嶋崎 地に足をつけて戦うための精神統一、低い位置から周囲を見させようという狙いです。試合後、大会役員にものすごく怒られました(笑い)。でもその後「勝ってよかったね」と言ってくれた。その言葉と、夏を含めて雑草軍団に応援してくれた観客の拍手は忘れません。

現在はノースアジア大監督として名門復活を目指す嶋崎監督
現在はノースアジア大監督として名門復活を目指す嶋崎監督

 ノースアジア大監督の今もマシンガンノックや伝家の宝刀のスクイズは健在。北東北大学リーグで一時3部に落ちた名門の復活にかける。弱い者が懸命に努力して強い者を倒す。反骨精神が嶋崎の野球人生を貫いている。

 嶋崎 いずれ近いうちに甲子園の大旗は東北に来るでしょう。東北は昔弱いと言われながら頑張って来たんだから。自分も大学野球で選手たちを全国大会の舞台に立たせたい。(敬称略)【北村宏平】