日米通算381セーブを記録した佐々木主浩(47=日刊スポーツ評論家)の原点は、高校野球にあった。東北(宮城)で84年夏から3季連続で甲子園のマウンドに立った。全10試合に登板して7勝を挙げ、2度のベスト8入り。日本のプロ、米大リーグのマリナーズで活躍した「大魔神」が、今の高校野球への持論もまじえ、当時を振り返った。

85年8月、佐賀商で力投する東北・佐々木
85年8月、佐賀商で力投する東北・佐々木

 佐々木が東北へ入学したきっかけは、反骨精神だった。宮城・将監中2年の時、OBや当時の竹田利秋監督(現国学院大野球部総監督)から入部を勧められていた。

 佐々木 竹田先生から誘われたのは「君、体が大きいね」という理由(笑い)。ただ両親、中学の担任から「根性がないから、あんたじゃもたない」と反対されてね。何だ、この野郎と思って。そこで火がついたね。

 当時の東北の練習メニューは朝、昼はグラウンド整備、夜は8時まで。その後は自主練習に励み、終わるのは夜9時すぎだった。

 佐々木 きつい。厳しいってものじゃなかった。でも、みんなの反対を押し切って入ったから、やめられなかった。

 強い意志が佐々木を成長させた。2年生だった84年夏に初めて甲子園のマウンドを踏んだのをきっかけに3季連続で登板。85年は春夏とも8強入りした。実は最上級生になって「東北始まって以来、最弱チーム」と竹田監督から酷評されていた。

 佐々木 卒業して大学で野球を続けたのは5人だけだったかな。あとは就職。そんなメンバーだった。

 監督の厳しいひと言にも、入学時の負けん気が支えになった。それでも甲子園では、1度も万全の状態で投げたことがなかった。

 佐々木 けがしてばかりで。2年夏は腰のヘルニア、3年春は右手首のけんしょう炎、3年夏は(軸足の)右足親指のまめをつぶしていた。

 けがを抱えながら、ピンチをしのいで好投を続けた。その姿に竹田監督も起用し続けたのだろう。登板した10試合が将来への道筋になった。

 佐々木 けががあったから踏ん張りにつながったと思う。プロ、メジャーでもやれたのはそれじゃないかな。打たれた後にどう踏ん張るか。自分に対して自分を信じられるかなんだよ。

東北・佐々木投手の甲子園試合結果
東北・佐々木投手の甲子園試合結果

 高校時代から遠投を大事にしてきた。それはプロ入り後も変わらなかった。

 佐々木 遠投はずっとやっていた。投手の基本だから。フォームを崩した時なんかメジャーでもやっていたね。

 佐々木と言えばフォークのイメージがあるが、高校時代はシンプルだった。

 佐々木 ほとんどストレート。最速は142~143キロぐらいだったと思う。変化球はカーブだけ。コントロールが良くて、四球が少なかった。球種が少ないから練習、試合で球数が多くても肘、肩は壊さなかった。今はスライダーとかカットボールとか負担のかかるボールばかり。球種を制限した方がいいとも思う。

 将来を考慮して、高校生の「投げすぎ」を指摘する評論家もいる。それには反論する。

 佐々木 高校時代って、目標は甲子園。プロが目標じゃない。プロに行ける選手なんかひと握りでしょ。最後の夏なんか、ぶっつぶれてもいいと思ってやっていたから。高校で頑張ったことが長い将来、何かにぶち当たった時に踏ん張れるんじゃないかな、と思うんだ。

 根底にあるのは東北で、甲子園で学んだ野球。「大魔神」とまで言われた佐々木の原点はそこにある。(敬称略)【久野朗】