52年前の1963年(昭38)春、甲子園のマウンドに「奇跡の投手」が立った。大曲農(秋田)の高橋茂さん(70)。62年秋の東北大会で全3試合を完封した右腕は、大会後に修学旅行を終えて東京を経由して秋田に戻る列車から転落し、意識不明の重体に陥った。頭蓋骨骨折、脳内出血を乗り越えてセンバツの舞台にたどりついた。

1963年、春2回戦のスコア
1963年、春2回戦のスコア

 これまでとは違う球に、高橋は気が付いていた。大曲農が初めて甲子園の土を踏んだ享栄商(愛知=現享栄)との初戦2回戦は、1回表に先制点をもらっていた。

 高橋 いつもは130キロを超えていたスピードが戻らない。球がいかない。力めば力むほど球が走りませんでした。

 1回裏に2点を失って逆転された。2-2の4回に2点を勝ち越され、5回に1点、6回には5点を奪われた。

 高橋 ドロップ(落ちるカーブ)が決め球でした。そのドロップを投げる前に打たれました。ストライクを取りにいく球を狙われた。みんなに申し訳ない感覚で投げていました。

 マウンドでも「悪夢」は頭から離れなかった。前年秋の東北大会を優勝した直後の10月、修学旅行で関西に向かった。帰りの列車は静岡・浜名湖の近くを走っていた。高橋は湖のきれいな風景を撮影したくてカメラを取り出した。当時走行中でも開閉できたデッキの扉を開けた。

 撮影しようと乗り出した瞬間、列車の振動でバランスを崩して転落した。2年後の64年開業を目指していた、東海道新幹線の工事用通路に打ち付けられた。

 高橋 湖に落ちていたら、間違いなく死んでいたでしょうね。

 頭蓋骨骨折、脳内出血で意識不明の重体になった。工事用通路に落ちたのが幸いし、一命は取り留めた。事故から17日後には奇跡的に意識が回復。九死に一生を得て、翌11月下旬には退院した。

 高橋 12月から練習を始めました。ボールを握り出したのは年明けぐらい。エースが重体。事故があれば普通はダメ。センバツに選んでもらえるのだろうかと不安でした。

 無事センバツには出場できた。だが投球内容は17安打11失点の完投負け。転落事故の影響で、本来の力を取り戻せないまま甲子園を去った。

 高橋 (事故から)一番大事な時の2カ月は大きい。自分の投球ができませんでしたから。練習不足で(試合途中から)握力も落ちていた。このまま試合が終わらなかったら、どうしようとも思いました。

 試合後、傷心のエースに温かい言葉がかけられた。

 高橋 チームメートから「ケガしてもここまでこれた。お前のおかげだよ」と言われたんです。それが救いでした。

 転落事故がなければ勝っていたのかもしれない。70歳になった今でも、心の片隅にその思いがある。それでも毎年のように開かれる同窓会には参加する。

 高橋 事故の恨みつらみを、チームメートや当時の加藤監督(故人)らから、1度も言われたことがないんです。感謝の気持ちでいっぱいになるんです。

 高校卒業後、社会人野球の大昭和製紙(96年廃部)などを経て、現在は秋田・美郷町で縫製会社を経営している。社員の誕生日には秋田・大仙市南外特産の陶器「楢岡焼」を贈り続けている。転落事故と甲子園で知った「感謝」を、半世紀を過ぎた今でも大切にしている。(敬称略)【久野朗】