4月7日からスタートした高校野球連載「甲子園100年物語」最終回は、戦時下の1942年(昭17)夏に開催された「全国中学体育大会野球大会」です。戦意高揚のため文部省などが主催したもので、正式な大会には数えられていない「幻の甲子園」。進軍ラッパの音が鳴り響く異様なムードの中、必死で戦った仙台一中・春日清内野手(現在87)が当時を振り返ります。

 夏の甲子園には、41年から45年までの空白期間がある。いうまでもなく日中~太平洋と続く戦争のためだ。だが42年、全国から16代表が集まり甲子園を舞台に野球大会が行われた。文部省などが戦意高揚を目的に開催したもので、甲子園の大会数は継承されていない。この「幻の甲子園」に、仙台一中3年の春日は9番三塁手として出場した。

 春日 開会式は軍服を着た大人がずらりと並んでね。異様な雰囲気だったことを覚えています。でも僕は当時15歳。そんなことより、球場とスタンドの大きさに圧倒されて。ああ甲子園に来たんだって、ただただ夢中でした。

 すべての面で軍事色の濃い大会だった。ユニホームはローマ字禁止。春日の胸は、現在も使用される伝統の「SENDAI」ではなく「仙台一中」の文字に替わっていた。プレーボール時にはサイレンではなく、進軍ラッパが吹かれた。空襲警報と間違われないようにするためだ。チームも選手団ではなく「選士団」と呼ばれた。

 春日 武士の「士」ですね。選手が球場に出入りする際につけるバッジにも「選士章」と書かれていました。爆弾三勇士の絵が彫られていてね。そういう時代だったんです。

 6人兄弟の5番目で、子供のころから遊びといえば草野球だった。家にほど近い、仙台一中に入学したのは40年。日中戦争の真っただ中で、翌年には太平洋戦争が始まった。

 春日 世間は野球どころではない状況で、2年生の時の甲子園も予選途中で中止になった。でも練習だけは続けていた。当時は楽しみといったら野球だけでした。

 2年秋から三塁手としてレギュラーになった。翌年春、甲子園が“復活”することが文部省の通達により決定。甲子園でプレーしたい。その一心で予選を勝ち抜き、聖地の土を踏んだ。

 1回戦は大分商に3-2で勝利。相手好投手の荒巻淳(のち毎日、阪急)を攻略した。だが続く広島商との2回戦は10-28で大敗。両チーム合わせて四死球40個を超える大乱戦だった。

 春日 最上級生(5年)だったエース小泉(芳夫)さんが、ひどい下痢をしてしまったんです。当時は食料事情が悪く、宿で出た外国産の米があたってしまった。ほかの選手もおなかを壊しましたが、小泉さんが一番ひどかった。それでも結局9回を投げ抜きました。その時、僕は知らなかったのですが、選手交代は一切認めないという大会ルールがあったんです。むちゃくちゃな話ですが、小泉さんはよく頑張ったと思う。

 試合は3時間以上にわたった。「本当に長い、長い試合でした」。体調不良者が続出する中、ナインは最後まで全力で戦った。

 春日にとって、これが中学5年間で最後の野球になった。秋からは仙台市内の軍需工場に動員され、終戦を迎えるまで砲弾を作った。戦後は会社員として働きながら、地元クラブチームで都市対抗を目指した。母校仙台一高監督を経て、92年に出場した還暦野球の全国大会で優勝。古希野球でも83歳まで“現役”を続けた。ポジションは中学3年の時と同じ。ずっとサードを守り続けた。

 春日 もう当時の仲間はみな亡くなってしまったが、あの甲子園が正式な大会かどうかというのは我々には関係のないことです。僕は今でも、あそこでプレーできたことに誇りを持っている。戦後大人になって苦しい時もあったが、そのたびに甲子園を思い出して乗り越えてきたんです。

 戦火が拡大する中、アルプススタンドに大歓声が響き渡った42年。春日にとってあの夏の甲子園は決して、幻などではない。(敬称略)【石井康夫】

(甲子園100年物語の連載は今回で終了です)