「宣伝してくださいね! お願いします」

 見上げた顔の、真っ直ぐな目に、ハッとさせられた。

 17日「第5回北九州車椅子ソフトボール大会」(福岡・穴生ドーム)を観に行った。目的は2つ。(1)車椅子でプレーするソフトボールを生観戦してみたい。(2)友人の応援をしたい。取材ではなく、プライベートでの観戦だったので大会主旨も、ルールも全く調べずに観戦した。逆にそれが幸いした。車椅子を使っての難しそうな動きに驚いたり、運営する北九州市立大学学生の姿に感心したりと、新鮮な感覚を得られる時間になった。全国12チーム、150人が参加する5年目の大会だそうだ。毎年、この時期に北九州で開催されるという。

 「友人」というのは、9年前に中学野球の取材で知り合った大谷颯さん(23)だ。当時14歳。群馬・伊勢崎三中のキャプテンとして全国中学校軟式野球大会(通称:全中)に出場した。4番打者、捕手として創部初の全国8強入りを果たす。取材を通じて家族ぐるみの付き合いとなった。しかしその年の冬。高校野球に向けて運動をしていたとき、大谷さんの体に異変が起こり、脊髄梗塞(こうそく)を発症。下半身が動かなくなり、車椅子生活が始まった。思い描いていた甲子園の夢は諦めることになった。

 多感な思春期に予期せぬ事故。原因不明のまま生活が一変し、ご家族の悲しみは深く、受け入れられないことも多々あったと思う。春になり、月日が経ち、高校野球で活躍する球友たちをどんな気持ちで見ていたか。当時は聞くことはせず、静かに見守るしかなかった。「野球」はもうやらないだろうな。そんな予感もあった。野球の話はしないようにしていた。


■西武ライオンズも後援。生で観た人にしかわからない魅力


 再会した大谷さんは、昨年発足した「群馬Shadow Cranes」に所属している。今回は「東京Legend Fellows」と共同チームを組んで、「東京・群馬連合」で出場した。「ボールは違っても、打って、走って、投げることは、やっぱり楽しい」と満面の笑みだった。競技用の車椅子で行う試合は、健常者も混ざって10人対10人で行うそうだ。外野を守る大谷さんは、ライト前に落ちた打球を車椅子で前進し、捕球。一塁に送球してアウトにした。かつて捕手で見せた強肩が、ひときわ目立った。予想外のプレーが起こるのも車椅子ならでは。車椅子を速く漕げないと、外野に打っても一塁でアウトになってしまうことも頻繁にある。足が動かせる選手は、車椅子の車輪を足で固定してバットを構えるが、足が動かない選手はバットを片手で持ち、テニスのようにシンブルハンドで打ち返す。選手たちは“珍プレー”が起こると笑い合ったり、ずっこけたりしている。見てるこっちも、つられて笑ってしまう。とにかく明るい。プレー写真を撮るのを忘れてしまうほど見入ってしまった。これは、生で観た人にしかわからない魅力だと感じた。

 大谷さんのチームは女性がピッチャーだった。チーム編成は障害の有無、性別、年齢は関係ない。「出場10選手の合計が21点以内」というルールがあり、障害に合わせて点数が決まっている。「健常者は3点、僕は2点で、もっと障害が重い人は1点、0点です。女性や高校生以下は本来の点数からマイナス1.5点したものが持ち点になります。みんな一緒に同じフィールドでプレーできるのがこのスポーツの最大の魅力です。」と大谷さんが教えてくれた。対戦相手の「埼玉」は埼玉西武ライオンズが後援しているそうだ。帰ってパソコンを開き、西武のホームページ「野球振興」をクリックすると、車椅子ソフトへの支援活動がたっぷりと載っていた。健常者と障害者が「対等」のパートナーとして組むところに価値がある。日本で協会が発足して5年。2024年パリ開催のパラリンピック正式種目を目指しているということも、この日初めて知った。

 18日、平昌パラリンピックが閉会した。日本は10個のメダルを獲り盛り上がったが、国内の障害者スポーツ認知度はまだ低いと感じる。そして、私自身がそうだったように障害者スポーツを難しく考えすぎてしまい「敷居の高いもの」と思っている人が多いように思う。これまで、大谷さんのことを発信することを遠慮していたが、それはいらないことだったと反省した。

 「宣伝して下さいね!」。

 とにかく、知って欲しい。車椅子ソフトを普及させたい。別れ際に言われた大谷さんの目には、そんな思いがあふれていた。障害を受け入れ、1歩踏み出すまでとても長い時間がかかった。

 「ハヤテ、また仲間ができて良かったね」「はい! 楽しいです!」

目標があると、人は輝く。そのきっかけになるのが、スポーツだ。また、大谷さんの活動を発信していきたい。偏見や先入観を捨てて、遠慮なく。【樫本ゆき】