<龍谷大平安・河合泰聖主将>

 9回1死二塁、打球がライトスタンドに入るのを見た瞬間、大きくジャンプし大喜びした龍谷大平安・河合泰聖(たいせい)選手(3年)。くしゃくしゃの笑顔を見せながら左腕を何度も天に突き刺して喜んだ。「つなぎたい一心でした。(8回1死満塁を好救援した)中田が打たせてくれました」。公式戦初本塁打。夢舞台の最終打席で打ち放った。


「暑さで記憶が飛んだ」と言いながらジャイアンツカップで力投した当時の河合(中3)。欠場したエース立田将太(現大和広陵)の穴を埋める大活躍だった
「暑さで記憶が飛んだ」と言いながらジャイアンツカップで力投した当時の河合(中3)。欠場したエース立田将太(現大和広陵)の穴を埋める大活躍だった

 「やりましたね。アイツは大舞台になるほど力を発揮する。さすが泉南の子ですよ」

 貝塚市出身の河合の勝負強さは、中学時代の恩師、葛城JFKボーイズ・田山国孝コーチも一押しする。河合は田山さんが代理監督を務めた11年8月のボーイズ全国大会で日本一を達成。「2冠」を狙ったジャイアンツカップ(同8月)では、体調不良で欠場したエースの代わりに主戦を任され、チームをベスト8まで導いた。あの時、ジャイアンツ球場は40度近い暑さだったが、河合が毎イニングごとに2台の扇風機を抱えこんで熱中症と戦っていたのをよく覚えている。驚いたのは、グラウンド整備の間「ども! おつかれサンです! 誰の取材っスか!?」と声をかけてきたこと。この子は苦しい中でも笑いを起こす根性がある。そんな魅力を感じた。


扇風機を置き、熱中症と戦いながらの力投した河合。強い精神力は中学生の時から群を抜いていた
扇風機を置き、熱中症と戦いながらの力投した河合。強い精神力は中学生の時から群を抜いていた

 河合に“再会”したのはそれから10カ月後だった。亀岡市の平安グラウンドで1年生部員として練習試合のボールボーイをしていた。試合に出られずつまらなそうにしていたので、原田監督に(期待を込めて)「河合は“やんちゃ”してますか?」と聞いてみた。監督はニヤリと笑い「それがね、思ってるほど、してこんのですよ。あいつにはもっと“元気”を出して欲しいと思ってるんですがね」と。いいチームに入ったなと思った。


神宮大会で会った時、帽子に書いた「恩返し」を見せ原田監督を日本一の男にすると誓った河合
神宮大会で会った時、帽子に書いた「恩返し」を見せ原田監督を日本一の男にすると誓った河合

 

 2年春のセンバツで早実に初戦負け。夏は府準々決勝で京都翔英に敗戦。勝運に恵まれなかった河合だったが、主将となった新チームで近畿大会優勝、神宮大会出場を決めた。準々決勝で日本文理に1点差で敗れたが、試合前「絶対に日本一になりますよ。他どこが強いんですか?ウチがいっちゃん(1番)強いでしょう!」と、相変わらずの“河合節”を聞き「いい意味でふてぶてしさが残っている!」と安心したものだ。センバツでの活躍を予感したが、まさかの昨日の追撃2ラン。そして初優勝。「38回目でやっとセンバツ優勝ができました。今まで支えていただいた方に感謝して、これからも龍谷大平安が強いと言われるよう精いっぱい頑張っていきたいと思います」


 創部106年の重みを背負ってのヒーローインタビューは、名門の主将らしく頼もしかった。原田監督の真心の指導を受け、夢をかなえた河合。本人からまだメールは来ないが、きっとこう言い放つだろう。「連覇しますよ。当たり前ですよ」と。


 ◆河合泰聖(かわい・たいせい)1996年(平8)10月10日生まれ。大阪附貝塚市出身。170センチ、75キロ。左投左打。O型。小3の時貝塚スポーツ少年団西地区で野球を始め、貝塚一中時代に投手兼外野手として葛城JFKボーイズで選手権優勝。ジャイアンツカップ8強。高2新チームより4番、主将を務める。家族構成は両親。憧れの選手は森友哉(西武)