第98回全国高校野球選手権(8月7日から15日間=準々決勝翌日の休養日を含む)の各地区大会が、18日の沖縄を皮切りに本格化した。「野球の国から」の高校野球編は、「監督列伝」と題して、甲子園出場を目指して奮闘する監督たちにスポットを当てました。前編5回は公立校。第1回は、85年夏以来の甲子園を狙う日立一(茨城)中山顕監督(45)です。

 上野駅から特急で約1時間40分。JR日立駅の改札を1歩出ると、一面ガラス張りの向こうにキラキラと光る太平洋が広がっている。約5年前に生まれ変わった駅舎のように、昨夏日立一が久しぶりに甲子園の重い扉に手をかけた。30年ぶりの県大会決勝へ導いた就任5年目の中山監督は「まずは、いい意味で、大きな勘違いをさせるところから始めました」と語った。

 31年前。日立一が初めて甲子園に出た時は、中3だった。「日立一の野球部に入る=甲子園を目指す、でした」。憧れて入るのが当たり前だった。しかし、戻ってきた母校は違った。「甲子園に出場していたことを、入部してから知る選手もいたぐらいでした」。選手の意識を変えたかった。

 何をどう始めればいいのか。考えて、たどり着いた。「1人でやるのは不可能だなと。熱を持った大人の協力が必要だと思いました」。手を挙げてくれたのが、マスコミ関連勤務で同校OBの皆川達郎さん(44)と小池康裕さん(45)だった。高校時代は野球部ではない。突き抜けた「日立一」愛を持つ、熱烈な日立一野球部のファンだった。

 監督就任直後に来た皆川さんは、セミナーを開いて歴史をひもといた。約1年後の12年5月に参戦した小池さんは、笑いのツボを押さえながら甲子園を身近に感じられるスライドショーを行った。スライドは毎回約100枚を超え、甲子園でプレーしているのは同じ高校生だと繰り返した。

 3人がタッグを組んで半年もたたないころ、選手の言葉や表情が変わってきた。「前向きな勘違いができるようになり、人前で『甲子園』って言えるようになっていました」。同年秋の県大会で13年ぶりの8強入り。13年春のセンバツで21世紀枠候補校に挙がった。選ばれなかったが、甲子園が一気に現実味を帯びた。

 忘れられない光景がある。昨夏の県大会2回戦の朝。試合に向かう前にグラウンドに出向くと、ベンチ外の下級生たちが練習する姿が目に入った。

 「この夏甲子園に行ったら、俺たちの代が簡単に負けるわけにいかない。だから準備しなきゃいけないってことだった。強いチームになったというか、甲子園を感じてるのだと思い、鳥肌が立ちました。意識が変わればって言いますけど、高校野球のすごさってそういうところですね」

 選手は、中山監督の想像をはるかに超えた。聖地へ向かう航海の準備は整った。【和田美保】

 ◆中山顕(なかやま・あきら)1970年(昭45)10月22日、茨城県生まれ。日立一では捕手として2年夏4強。日体大を経て中学講師を経た後、江戸崎西(現江戸崎総合)で野球部監督に就任。水戸一で10年監督を務めた後、11年に母校へ戻った。家族は夫人と3女。