「あのとき、あの1球」最終回後編は、15年夏の甲子園決勝、東海大相模(神奈川)-仙台育英(宮城)戦の勝敗を分けた最終盤の攻防を、引き続き佐々木順一朗監督(57)の目線で振り返る。6-6の9回表に相手エース小笠原慎之介(現中日)に勝ち越しソロを浴び、東北勢初の優勝を逃した。その前の8回裏に、試合の流れを左右する1プレーがあった。

 佐々木監督には、深紅の大優勝旗がはっきり見えていた。9回が始まる前までは……。

 先頭、9番小笠原の初球。エース佐藤世那(現オリックス)が投げた125キロのフォークが高めに抜けた。高々と上がった打球をただ、ぼうぜんと見上げるしかなかった。

 佐々木監督 違う穴に入っていく感じ。えーーって。どうしてホームラン? 相手が抱き合っているのが見えて、何だよこれ、みたいな感覚になって。夢が飛んでいった。想定外。9回裏の攻撃に気持ちがいってたのは確か。あの試合で小笠原君は世那のフォークに合ってなかった。打たれるわけがないと思っていた。1球目ですか。高めにすっぽ抜けたフォークに、ポコンと当たった。

 続く1番こそ抑えたが、2番以降は3連打を含む4安打で計4失点。初回からピンチの連続で伝令も使い果たしていた。1点差で9回裏に突入していれば、勝負はまだ分からなかった。

 佐々木監督 僕に修業が足りなかった。その時に戒めるとか、アウトカウントを整理するとかが出来なかった。選手も虚脱感に襲われていた。それであんなに点数が入った。それまで圧倒的不利の中で、6回の同点三塁打や、ありえないことがいっぱい起きた試合で、最後の9回にこんなことがあるんだ、って頭が整理できなくなっていた。

 その前の8回裏で、その後の流れを左右する1プレーがあった。2死、8番谷津の2-2の6球目。内角ベルト付近の球に背中を向けて当たった谷津は、死球と思い一塁に駆けだすが、球審がストライクを宣告。故意に当たりにいったと判定されたのか、三振に終わった。ボールはベース上を通過してなかった。

 佐々木監督 谷津が死球を受けると今まで負けたことがないし、得点も入る。その瞬間、ベンチは大盛り上がりでしたけど、審判が来て三振って言われて。完全なボール。もしちゃんと逃げてない、とするならボールなんです。流れが立ち消えた瞬間だったんです。

 球審の判定に左右されたのが問題ではない。佐々木監督は、流れの変化を察知できずに突入した9回の入り方を問題視していた。

 佐々木監督 9番から上位に回る9回裏の攻撃で、点数をとることしか考えていなかった。立ち直った世那は7回以降ちゃんとした投球をしていたし。(谷津の三振で)流れが変わったことを感じていなかった。(死球かと思ったのがストライク、三振の判定となって)流れを180度変えられたわけだから、いつものウチのパターンではないぞ、と。そのまま世那をマウンドに行かすのではなくて。とにかく気をつけろ、この回は要注意だぞ、と言っておけばよかった。そのことは試合後、すぐに言っている。それは今でも思う。

 6回の同点以降、佐々木監督の頭脳はフル回転していた。勝利のシナリオ書きと同時に、優勝インタビューまでイメージしていたことを明かした。

 佐々木監督 優勝となると、東北地区が最後。とうとうくるんだ、こういうふうに優勝がくるんだ、こんな風に波が一気に押し寄せてくるんだ、と感慨にとらわれて。今まで目指してきて、過去の人たちもみんなが目指してやってきた。1回もできなかった優勝をここでするんだ、という変なノスタルジックな考えも浮かんだ。ふざけたこと言っちゃいけないな、ふさわしい言葉を言わなきゃいけないっていうのが、頭をよぎった。ずっと考えているわけじゃないですよ、試合の中で。そういう時が来たんだな、という思いに駆られていました。

 大きな節目だった高校野球100年の夏に、東北勢悲願の初優勝を達成することはできなかった。1年半前の夏は、佐々木監督にとってどういうものだったのか。

 佐々木監督 怒られるかもしれないけど、最高の試合を最高の場所から見られた。あれよりいい席がないと思う。試合に入り込めるわけですから。幸せだなって感じ。生徒には感謝の気持ちしかない。あの試合をしたのは生徒ですから。(終わり)(取材、構成・高橋洋平)