プレーバック日刊スポーツ! 過去の3月26日付紙面を振り返ります。2011年の1面(東京版)は、センバツ高校野球で東日本大震災の被災地の対決となった光星学院(青森)-水城(茨城)の全力プレーでした。

◇ ◇ ◇

<センバツ高校野球:光星学院10-0水城>◇2011年3月25日◇1回戦

 光星学院(青森)が被災者に勇気を与える1勝を挙げた。東日本大震災の被災地の対決となった水城(茨城)戦を10-0で制し、東北勢として今大会初勝利を飾った。学校のある青森・八戸市は地震と津波で大きな被害を受けた。野球をできることに感謝しながら攻守にはつらつとしたプレーを見せた。校舎に亀裂が入り、グラウンドの照明も曲がった水城も精いっぱいのプレーで力を出し切った。

 被災者への思いが光星学院打線のバットに乗った。初回に4番田村の中前打で先制し、2回に敵失と川上主将の2点二塁打で4点。5回まで毎回の10得点を奪っても、喜びは押し隠した。「展開に一喜一憂するのは、被災地のことを忘れてるのと同じだぞ」。仲井宗基監督(40)の言葉を守って、過去4戦全敗のセンバツで初勝利を挙げた。

 エース秋田は1回の初球で自己最速を1キロ更新する143キロをマーク。避難所のテレビで見た人もいる。「少しは活気を与えられたかな」と、震災下で聖地に立てた感謝を5安打完封に変えた。試合後は水城ナインと健闘をたたえ合った。

 11日の地震発生時は、沖縄合宿を終え羽田に向かう飛行機の中だった。着陸できず7時間半、機内に缶詰めの末、那覇に戻された。被害が分かり始めた翌朝、目を疑う。テレビでは、八戸港が津波にのまれ、数え切れないほど往復した蕪島神社のランニングコースが、転覆した漁船で埋まっていた。

 仲井監督の妻祐美子さん(40)と長女叶羽(とわ)ちゃん(5)は氷点下に迫る車中で夜を明かし、マグロ卸業をしている小坂貫志部長(32)の実家は浸水。泥をかき出す作業に追われた。全校応援は断念。親交の深い大槌高、大船渡高がある岩手沿岸は壊滅状態だった。「この状況で野球してていいのか…」。ナインは思い詰めたが、現地の人は異口同音に言ってくれた。「こっちは気にするな。夢だったんだから甲子園で頑張れ!」。災害地からの声で吹っ切れた。

 センバツ開催への意見は賛否両論ある。ただ、与えられた場所で全力を尽くすことしかできない。2年前の春。西武菊池雄星を擁して準優勝し、甲子園を沸かせた花巻東(岩手)の佐々木洋監督(35)は今、被害の甚大な大槌町などで支援に当たっている。開幕前、光星の金沢成奉総監督(44)に電話があった。「僕らにできるのは復興支援。光星さんにできるのは野球です」。既に大会後のボランティア活動を決めていた金沢氏は、あらためて甲子園で全力を尽くすと誓った。

 悲願の春1勝は、青森県勢にとって87年の八戸工大一以来24年ぶりの歓喜でもあった。被災地へ届け。10点をリードしながら、秋田が温存を避け9回を投げ抜いたのも、地元復興への思いからだった。

◇ ◇ ◇

 被災地の人たちを励ましたい。その一心で臨んだ水城の初めてのセンバツは、大敗に終わった。1回に2安打で先制され、2回から5回まで4失策で10失点。エース佐藤賢の自責は1だった。橋本実監督(63)は「守備強化は秋から取り組んできた。練習不足のせいじゃありません」と震災を言い訳にしなかった。

 だが影響は大きかった。茨城での練習試合はすべて中止。放射能漏れの不安を抱え、地割れしたグラウンドに出たり入ったりしながら必死に調整した。周囲から「こういう時に練習やっていいの?」という声も上がった。大阪入り後は、地元県人会による激励会も中止。佐藤賢は、福島・南相馬市の祖父母の無事が3日前まで確認できなかった。

 大勢の人の協力があった。寮で食料が手に入らなかった時。和食レストランを営む、控え捕手の原山の両親が炊き出ししてくれた。実家が養鶏場の阿久津が、ガソリン不足でグラウンドに来られなかった時。近所の人たちが、ガソリンを分けてくれた。

 飛田主将はこれまで何度も「感謝の気持ちで戦う」と話してきた。スタンドには、兵庫県の4高校から約140人が友情応援。復興した被災地の応援を背に、必ずまた戻ってくる。強い決意を胸に、誰1人甲子園の砂を持ち帰らなかった。

 ◆在校生が来られなくなった光星学院のため、兵庫県高野連の呼びかけで神戸国際大付、西宮南、多可高校162人が友情応援に駆けつけた。これに仲井宗基監督の母校、大阪・桜宮高から56人、保護者会、OB会の約1500人らが一体となって応援を繰り広げた。ベンチ入りできなかった熊田昇太(3年)と2年生部員19人は「僕らしかいないと思っていたので本当にうれしい。グラウンドのみんなも頑張ってくれると思う」と感激していた。

 ◆水城の応援には兵庫県内の4校から約140人が駆けつけ、最後まで懸命に声援を送った。阪神・淡路大震災が起こった95年、夏の甲子園に出場した尼崎北の野球部員も声をからした。日置貢啓監督(39)は「地震の大変さは分かります。うちの野球部は95年にたくさんの人に支えられ、夏に甲子園に出られた。いつか恩返しをしたかった」と話した。

※記録と表記は当時のもの