3年生唯一のマネジャーと3年生部員12人の夏物語が幕を閉じた。

 この日、公立・天王寺は私学の強豪近大泉州に惜しくもサヨナラ負けを喫した。進学校で知られる天王寺は、練習環境が限られた中での健闘だった。グラウンドで練習ができるのは2日に1回。1時間45分だけ使用できる70×100メートルのグラウンドを3つの部活で分け合った。できない打撃練習は毎朝6時に集合し、学校周辺の清掃を30分行ってから1時間だけ取り組んだ。それからまた、45分7限の授業に向かった。まさに「文武両道」を体現してみせた。東京大学理学部志望だという明星芽生(めう=3年)主将は「文武両道でやってきたことが自信だった。だから大丈夫だと言う気持ちだった。悔いはないです」と力強く話した。この日のメンバーもほとんどが京都大学志望だったといい「今日からは勉強1本。死にものぐるいでやります」。

 3年生最後の勇姿を、西川夏菜(なつな)マネジャー(3年)は記録員としてベンチで見届けた。

 高校野球に興味があった西川マネジャーは中学2年生の春、球場で偶然観戦した同校の試合を見て「一目ぼれでした。雰囲気がどストライク」と進学を決意。「天校に入って野球部に入る」ことを目標に、クラブ活動と平行して受験勉強を始めた。母美紀さん(45)が「最後の1年は寝ずに勉強していました」と話すように、1日10時間以上の猛勉強で入学を果たした。

 西川マネジャーが1年生の時、当時の監督・政英志氏(63)に「(同学年部員)12人全員の彼女のつもりで3年間過ごしなさい」と言われたという。「そこからそのつもりで」とさらに身が入り、チーム改革に取り組んだ。3年になり、食トレや体重管理、メニュー本を作っての栄養管理も行った。「勉強している暇があったら、何をしようかな、何を買おうかなと考えていた。野球が9割くらいでした」と力を注いだ。明星主将は「全国で1番のマネジャーです」と胸を張った。

 この日、舞洲の同球場で天王寺の戦いは幕を閉じた。西川マネジャーは「運命を感じました」と振り返る。

 中学3年生の夏休みの宿題で、舞洲の同球場の絵を描いた。無人のスタンド3塁側アルプスからホーム方向への風景。大きくかかる黄色のアーチが特徴だった。「甲子園の次に憧れの場所。天校野球部で、ここで野球がしたい」。大会決勝などでも使われる同球場に思いを込めて描いた絵は、コンクールで入賞も果たした。

 この日が入部して、最初で最後の舞洲だった。「いまだに夢みたい。まさか実現するなんて。みんなが私の思い、憧れ、目標を果たしてくれた。感謝しかないです」と涙の後に笑顔を見せた。「(12人の彼女には)なったつもりです」と照れ笑いし、「こうやっていい意味で燃え尽きることができた。それはそれで思い出として置いておこうかなと思います」と話した。今後は、夢である薬剤師への道を歩み出すという。

    【奥田隼人】