甲子園に「怪童」あらわる! 超高校級スラッガーとして、怪童の異名をとった高松一OB、プロ入り後は西鉄ライオンズでプレーした中西太氏(85=日刊スポーツ評論家)が18日、全国高校野球第100回大会で、「レジェンド始球式」に登板した。

 一塁側室内で行ったピッチング練習ではまったくの不調だったが、見事なノーバウンド投球を披露して万雷の拍手を浴びた。マウンドを降りた後は「わたしは本番に強いんだよ」と周囲を安堵(あんど)させながら笑わせた。

 始球式で隣に付き添ったのは、「木津スーパーレッズ」所属で背番号6をつけた桑原仁太君(12)だった。セレモニーの感想を聞かれて「練習ではうまくいかなかったけど、本番ではよかったです」と満足した様子だった。

 中西氏を「怪童」と名付けたのは、「学生野球の父」と称される飛田穂洲(すいしゅう)氏だ。戦後の混乱期に、ひたすら白球を追いかけた。三原脩氏、水原茂氏ら、伝説の名監督を輩出した「野球王国」高松の伝統を引き継ぎ、「高松に中西あり」と言われた。

 高1の1949年(昭24)春夏、51年夏と3度の甲子園出場。最後の夏になった33回大会は、岡山東(現岡山東商)、福島商と対戦し、2試合連続ランニング本塁打を記録し、走攻守とも度肝を抜く球児だった。

 地元の石清尾(いわせお)八幡宮での階段登りで、強靱(きょうじん)な足腰が鍛えられ、血のにじむようなキャッチボール、素振りで甲子園を目指した。

 「千本ノックに耐えることのできる心身は、八幡宮さんで培われた。精神的に粘り強くなったし、すべてはその苦行にあった。それが甲子園につながった」

 プロでは西鉄で史上最年少のトリプルスリーを記録し、本塁打王5回、首位打者2回、打点王3回を獲得。僅差で4度の3冠王を逃したスラッガーだった。西鉄、阪神、日本ハムなど9球団で監督、コーチで指導にあたるなど、プロ・アマ野球界に貢献してきた。

 今回のレジェンド始球式が決まってからは、自宅のバスルームで、ストレッチ、シャドーピッチングを繰り返しながら、この日のメモリアルに備えた。名将三原脩監督の長女で、夫人の敏子さんは、自宅でテレビ観戦したが、子供、孫たちの中西ファミリーは、ネット裏で快投を見届けた。

 ベンチ裏に退く際には、大阪桐蔭・西谷監督に「素晴らしいチームですね。また練習を見にいかせていただきます」と激励。最後に球児たちに「失敗を恐れずプレーしてほしい」とメッセージを残して大役を終えた。