大阪桐蔭の前監督、長沢和雄氏(68)が、春夏甲子園で歴代単独最多となる7度目の優勝を果たした西谷浩一監督(48)に、祝福のメッセージを送った。西谷監督の高校時代も知る恩師が「素顔」も語った。

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 大阪桐蔭は最後のゲームセットの瞬間まで力を抜かないですね。よくやったと思います。みんなが期待の目で見ている中で立派だと思います。選手は自分たちのプレーに専念している中、それをうまくやったのが指導者の力だと思います。

 最初に会った時は報徳学園の一選手でした。大学を出る時に相談を受けました。コーチとか指導者の道にあこがれていたようです。報徳学園時代、彼はレギュラーではないキャプテン。人間性というか、みんなに一目置かれる選手、人間でした。話をしても、野球好きなこと、まじめなことが伝わってきましたからね。

 コーチ時代は厳しかったですね。走ることやトレーニング系統を担当していましたから、厳しくするのは選手のためなのですが、嫌がられていましたね(笑い)。山の上の神社までの長い階段や地獄のような坂道を、よく走らせていました。コーチの時はイノシシみたいなもんです(笑い)。前しか見てないみたいな。

 私は監督をやめてから、グラウンドにほとんど顔を出さなかったですが、たまに来てほしいという気持ちがあったのか、よく打つとか将来性のある選手がいたら「長沢さんに見てもらいたい選手がいる」と言うんです。電話はしょっちゅう。携帯の履歴は西谷、西谷、西谷ですよ。1時間近く話す時もありました。

 お互い、野球好き。野球の話ばっかりです。例えば、うちの家に6時か7時に来て、飯を食って話し込んで、ちらっと時計見るでしょ、そうすると11時とか。教え子の話題とかで、3、4時間なんか当たり前。家の近くに中華料理店があるのですが、天津飯とかラーメンを食べながらずっと野球の話ということも。いまだに「こんな選手おりますよ。(長沢さんに)見てもらったらありがたいんですけど」とか言います。

 以前から変わった部分は…、体形がちょっと変わりました(笑い)。もうちょっとスリムやったんですけどね。甲子園に出る前、いつも言いますよ。テレビに映ると大きく映るんだから、締めとけよ、と。「こればっかりは…」と言ってますけれど(笑い)。

 僕が優勝した時(91年夏)と今は全然違いますね。今は安定した力で野球をやっている。これをどこまで維持するか。永遠に勝てるとは思わないです。だからその時にどういう野球部になるか、どういう指導者でいられるか。まだ当分、続くと思いますが。

 ◆長沢和雄(ながさわ・かずお)1950年(昭25)7月1日、大阪・豊中市生まれ。関大第一高では投手で甲子園出場はなし。関大ではリーグ優勝7度。大学選手権を制し、社会人野球の大丸(京都)に。都市対抗野球に7年連続を含む通算8度出場。81年に大丸が休部し、運動用品の会社に再就職。88年4月に大阪桐蔭監督に就任し、91年夏に甲子園初優勝を果たした。