高校野球界の名将、浪商(大阪、現在大体大浪商)などで監督を務めた広瀬吉治氏が12日、死去したことが13日、分かった。89歳だった。

1946年(昭21)、戦後初の夏の大会で、浪華商(浪商の前身)捕手として、平古場昭二(慶大-鐘紡)とバッテリーを組んで全国制覇した。これを機に同校は「大阪に浪商あり」といわれ、黄金時代に突入する。

その後、法大で優勝、監督としては、53年洲本高(兵庫)を率いたセンバツの決勝で、母校・浪華商を破って、淡路島に優勝旗を届けた。68年から母校の監督に就き、数多くの名選手を輩出。また、大院大でも指揮をとった。

今年の甲子園100回大会を前に、広瀬氏は「わたしは選手のとき、温室の花ではだめだ。月を仰ぎながら、ヘドを吐くほど、風に当たり、雨に打たれ、踏みつけられてもたくましく…、という指導を受けてきました」と振り返っていた。

浪商監督だった79年センバツでは、牛島和彦-香川伸行の人気バッテリーを擁し、準優勝を果たした。厳しい練習としつけで選手を指導したが、「野球より人間を作る」という方針に徹した、高校野球史に残る名監督だった。

1924年に創部の浪商は、2年後に大阪代表として第12回全国中等学校優勝大会(現在の夏の選手権大会)に初出場した。春夏合わせて、32度(センバツ19、夏13)の甲子園出場を誇っている。

そのうち優勝はセンバツと夏に2度ずつの4度、準優勝はセンバツに3度ある名門。OBには、坂崎一彦、張本勲、尾崎行雄、大熊忠義、住友平、高田繁、落語家の3代目桂春団治らがいる。

広瀬氏は「わたしは素晴らしい教え子たちに恵まれて幸せでした」と話していた。甲子園に歴史を刻んだ名監督が、区切りの年に天国へと旅立った。

【寺尾博和】

 

◆通夜13日18時、告別式14日13時30分から、吹田市桃山台5-3-10、公益社 千里会館(06-6832-0034)。喪主=広瀬吉孝氏(長男)。