大船渡・佐々木朗希投手(3年)は「仲間とともに」と願った甲子園に届かなかった。故郷・三陸への思い、家族への思い。人生の分岐点は東日本大震災が起きた11年3月11日だった。「あの日」の涙から今日の涙まで、家族4人で懸命に頑張ってきた日々を、母陽子さんが回想する-。

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3058日前、東日本沿岸を襲った大津波は、三陸にも数え切れないほどの、深い悲しみをもたらした。陸前高田で7人家族で平和に暮らしていた佐々木家にも。

母陽子さんは仕事で隣町の大船渡にいたが、浸水で立ち往生を余儀なくされた。親子が会えない夜、不安が募る。翌朝5時には車で陸前高田へ出発。普段は30分なのに、3時間近くかかった。高台の施設に避難し、一夜を明かした3兄弟。再会に涙した。

なのに、7人がそろわない。覚悟した。大船渡の親族の家での、胸が張り裂けそうな5日間。3月16日、電話が鳴った。「見つかりました」。電話口の言葉を知った朗希少年が「見つかった!?」と目を見開いたことを陽子さんは今でも覚えている。大人ならすぐに悟れる「見つかりました」の真意。当時9歳の朗希には、7文字の深さを察することはまだ難しかった。

いつもニコニコと朗らかで、3兄弟を愛し、愛された父功太さん(享年37)が亡くなった。功太さんの母である、朗希の祖母もその後、見つかった。祖父はいまだ行方不明のままだ。自宅は流され、仮設住宅の抽選にもなかなか当たらなかった。陽子さんは「(長男の)琉希が父親代わりに弟2人の面倒を見てくれて、子どもたちはいつの間にかどんどん成長してくれました」と穏やかに振り返るが、この8年強の苦労は想像を絶する。

懸命に働きながら、子どもたちが野球を頑張る姿に励まされた。寂しさもあった。仲間は父親がビデオカメラを回すのに、うちは。それでも母は肉眼で見たかった。功太さんの分も。「高校に入って、周りのお父さんやお母さんが試合の写真とか映像をくれるんです。本当にありがたくて」。いつまでも残る成長の証し。4回戦のホームランボールを関係者から渡されると、いとしそうに抱きしめた。

「大きく育てたい」と早寝を促した子どもたち、特に次男の朗希は、181センチだった功太さんをはるかに超える体格に成長した。毎朝、190センチの背筋を伸ばし、父たちの写真に「行ってきます」と声をかけ、元気に学校へ向かう。母の思いがこもった弁当を、カバンに詰め込んで。

敗れた今、朗希に何と声をかけるのだろう。「髪、伸ばして…かな」。評判の仲良し夫婦だった。「私も旦那もこういう時にふざけちゃうんです」と笑う。でも。「きっと旦那も『よく頑張ったな』って言うと思います」。もうすぐ功太さんの誕生日。見上げた青空には、入道雲が延びていた。【金子真仁】