第25回全国高校女子硬式野球選手権の決勝が、史上初めて甲子園で、男女同日開催で行われた。神戸弘陵(兵庫)が4-0で高知中央に勝利し、5年ぶり2度目の頂点に立った。北海道から鹿児島まで、各地から40チームが参加した大会。5校のみの出場で、都内で行われた97年第1回大会から24年。両校の選手たちが聖地のグラウンドに立ち、新たな歴史を刻んだ。

   ◇   ◇   ◇

甲子園の夜風に乗って、神戸弘陵ナインの「イエーイ!」というよく通る声が響いた。7回2死、島野愛友利投手(3年)が左飛に抑えて終了。マウンドに、歓喜の輪ができた。「89(野球)」の番号を背負う島野は「これからも、高校野球女子にとって目指す場所が甲子園であり続けてほしい」と願った。

試合前には、メンバーとスタンドの控え選手がフェンス越しに大きな輪を作り、歌を歌って心を1つに。ベンチからのかけ声も、リズムはぴったり。この声出しや動きが、女子野球の特徴だ。神戸弘陵の小林芽生主将(3年)は「めちゃくちゃ楽しめました。1回目として、この場所に立てたことはうれしかった」。相手へ、敬意の拍手を送った高知中央の氏原まなか主将(3年)も「3年間を振り返ったら苦しいけど、忘れるくらい甲子園に出られてうれしかった」と話した。

97年、5校の出場で始まった大会から24年。現在の加盟数は43チームに増えた。「女子野球を甲子園で」の機運が高まり、昨年、日本高野連と全日本女子野球連盟、全国高等学校女子硬式野球連盟の3団体の意見交換会が初めて行われ、甲子園開催にこぎつけた。

だが歴史的な一戦も、1歩目にすぎない。男子部員に交じり高野連に所属する女子選手もいるが、危険防止の観点から公式戦には出場できない。女子野球連盟に所属する選手との扱いは、今後の課題でもある。今回出場した40チームのうち、ほとんどが私学。公立校にも普及が進むことで裾野は広がる。来年の甲子園開催も、まだ決定してはいない。

野球人口の減少は、野球界が取り組むべき目下の課題。91年には、日本プロ野球協約から「医学上男子でないものを認めない」という条項が撤廃され、NPBでもプレーは可能だ。神戸弘陵の石原康司監督(61)は、同校の男子野球部を率いて94、99年にセンバツ出場。22年ぶりの甲子園で3回、宙に舞い「女子野球の扉が開いたんじゃないかと思う。女子野球の底辺が拡大して、盛り上がると思う」と期待した。女子野球界が秘めているパワーが、花開くときだ。【保坂恭子】

◆甲子園と女性 08年センバツの甲子園練習で、華陵(山口)の高松香奈子外野手(当時3年)が、女子部員として史上初めてユニホーム姿で登場。ベンチでタイムキーパー役などを務め、試合ではスタンドから応援した。16年夏には大分のマネジャー首藤桃奈さん(当時3年)が練習を手伝ったが、大会関係者から制止され、グラウンドから出るよう指示を受けた。当時は出場校へ配布された手引に練習補助員とボールボーイは男子部員に限るとの記載があった。女子が記録員としてベンチ入りが認められたのは、96年夏の甲子園。東筑(福岡)の三井由佳子さんをはじめ同夏は9校の女子マネジャーがベンチ入りした。女性部長として初めてベンチ入りしたのは、95年夏の甲子園での柳川(福岡)の高木功美子さん(当時39)だった。