<高校野球秋季四国大会:池田9-3生光学園>◇26日◇準決勝◇松山坊っちゃんスタジアム

 池田(徳島)が生光学園(徳島)を9-3で破り決勝進出、来春センバツ出場へ大きく前進した。

 さわやかイレブン、やまびこ打線、蔦監督…(2001年4月28日に他界)。春夏合わせ全国優勝3回、準優勝2回の名門も1992年(平4)夏を最後に甲子園から遠ざかっていた。出場が決まれば22年ぶりの甲子園となる。<復刻版=2001年4月29日付紙面より>

 徳島県立池田高校野球部の監督として春2度、夏1度の甲子園制覇を遂げ「攻めダルマ」と呼ばれた蔦文也さん(つた・ふみや)が28日、肺がんのため徳島・池田町の病院で死去した。77歳だった。監督就任20年目の1971年(昭46)夏に甲子園初出場。「さわやかイレブン」旋風を巻き起こし、金属バット採用後は「山びこ打線」の異名を取るパワー野球で高校球界に革命を起こした。92年3月、40年間の監督生活引退を決意し野球部顧問を務めていたが、ここ数年は体調を崩して入退院を繰り返していた。葬儀・告別式は30日に行われる。

 

 愛称「攻めダルマ」。驚異のパワー野球で甲子園を沸かせた蔦さんが、故郷徳島で静かに息を引き取った。より遠くへ打球を飛ばす豪快野球で次々に対戦相手をねじ伏せた。高校野球の定義を根底から覆した名物監督だった。

 「山あいの子らに1度は大海(甲子園)を見せてやりたい」。1952年(昭27)、阿讃山脈と四国山脈に囲まれた池田高の野球部監督に就任すると、まず甲子園出場を目標にした。「そんなことじゃ、いつまでたっても徳島商に勝てんぞ」を口ぐせに、1000本ノックで選手たちを鍛えた。

 それから20年かかって、71年夏に甲子園初出場。74年の金属バット採用後は、蔦監督の神髄「攻めまくる野球」を一気に開花させた。

 いつもは早朝6時から打撃練習を開始。練習時間は守備1時間に対し、打撃3時間。「遅い球はいくら打っても意味がないけんのう」と130キロの速球を打てない選手にはバットを持たせなかった。当時300万円をかけた筋力アップ器具を校舎内に設置し、サーキット・トレーニングも重視した。

 こうして生まれた「やまびこ打線」は初優勝した82年夏、全国にその名をとどろかせた。「サインは打て」。蔦監督はバントのサインをほとんど出さない強気一辺倒。準々決勝では好投手荒木大輔の早実に20安打を浴びせ、14-2で快勝。広島商との決勝では初回に開始10分で6点を先行しながら「1点ずつ返されたら6-9で負けるんじゃ」と攻めまくり12-2で圧勝。6試合で85安打を放ち甲子園を仰天させた。

 絶頂期の蔦監督は講演で「文芸復興期にカルヴァンという人が、運命は努力によって変えられると言っています。ここ一歩で負ける運命を、努力して勝てる運命に変えていこうと思いました」と話したことがある。「努力は無限」とも。引退後は、野球部顧問を務めていたが、一昨年からは体調を崩した。胃、大腸の手術を受けるなど入退院を繰り返した。療養中は他人と会うのも避けるようになっていた。

 この秋から高校野球では安全性を考慮し、打球が飛ばない金属バットが採用される。フルスイング打法で甲子園の名勝負を演出した蔦野球は今後も伝説となって語り継がれていくはずだ。