79年に甲子園大会で史上3校目の春夏連覇を果たした箕島(和歌山)の元監督、尾藤公(びとう・ただし)氏が6日午前3時37分、ぼうこう移行上皮がんのため、和歌山市内の病院で死去した。68歳だった。66年の監督就任後、春夏合わせて14度甲子園に出場し、春3度、夏1度制覇。79年夏の3回戦・星稜(石川)戦の延長18回の激闘は、高校球史に残る名勝負だった。95年夏の退任後は、日本高野連常任理事として高校野球の発展に力を尽くしてきたが、近年はがんとの闘いが続いていた。

 延長18回を戦ったメンバーも尾藤氏の死を悼んだ。星稜監督だった山下智茂氏(66=同校総監督)は、系列大学野球部の合宿で滞在中の和歌山県みなべ町で悲報を聞いた。「実は今日お見舞いに行く予定で…。びっくりしてその場で動けなくなりました。これも、尾藤さんとのご縁なのでしょうか…。大きな方を失いました」と声を詰まらせた。

 最後に会ったのは昨年9月。甲子園で31年ぶりに18回メンバーで戦った箕島-星稜戦。その後も月に2、3回、電話を入れていたという。「病気のことは隠さず言っていました。『あとは頼むぞ』とばかり言っていた。1月に『何を食べたい』って聞いたら(魚の)『ノドグロ』というので送った。『おいしかったよ、ありがとう』の会話が最後になりました」。

 18回の激闘、出会いには感謝しかないという。「人生観、野球観を変えてくれた人生の宝のゲームです。雲の上の方で僕には偉大すぎる方でしたが、その後も兄貴のように教えていただいて…」。星稜のエースだった堅田外司昭さんも、激闘後に尾藤氏の温かさに触れていた。「甲子園後に高校全日本に選ばれてハワイ遠征に行ったとき、延長戦でまた負け投手になった。そのことを(尾藤)監督は悔やまれて、次は野手で使って下さった。負けたままにしたくないというお気持ちがありがたかった」と振り返った。

 箕島のエースだった木村竹志(石井毅)氏(49、元西武=紀州レンジャーズ監督)は「バント1つにしても、重圧のかかる状況を想定してやっていた。もうちょっと今までの経験を伝えてほしかった」と声を落とした。12回に同点本塁打を放った捕手、嶋田宗彦氏(49=阪神2軍バッテリーコーチ)も大粒の涙を流した。「厳しさの中に優しさがあった。今ユニホームを着ていられるのは監督のおかげですから」。尾藤スマイルはもう見られない。しかし球史に、人々の記憶に、偉大な足跡を残したのは間違いない。【松井清員】