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ニッカンの名物連載「伝説」が本に! 広瀬叔功編


69年、広瀬は甲子園で行なわれた球宴でフルスイング
69年、広瀬は甲子園で行なわれた球宴でフルスイング

 第二章 熱い男たちで取り上げた広瀬叔功は南海黄金期不動の1番打者で天才的なスピードスターだった。64年には89試合目まで打率4割を記録するなど、野村克也、杉浦忠とともに南海ホークスを代表する選手だった。

 小学校3年の時、広島県西部の生まれ故郷で原爆のキノコ雲を見た話は普段の快活で笑顔を絶やさない広瀬とは違った一面が伺える。現役時代、報道陣とは必要以上に和さなかったが、優しい人柄が本書の中では随所に見られる。

 近所に住んでいた杉浦が59年の日本シリーズ4連投MVPで車を貰う。以来、自宅から大阪球場への通勤は杉浦の愛車だった。申し訳なく思った広瀬は車を購入する。

 広瀬「トヨタの車、買ってから気付いたんや。あっオレ免許持っていない…」。それから練習して免許を取った」。

 遊撃から外野に転向した理由も破天荒だ。専修大学から入団した遊撃手の小池兼司が右手の指を骨折し「広瀬さんがいるし、プロに入るんじゃなかった」と泣いた。広瀬は肩が痛いと心酔している鶴岡監督に嘘をつき、外野手転向を許してもらった。「まあどこでもレギュラーになる自信はあったしな」。茶目っ気たっぷりに話すが、生存競争の激しいプロ野球では常識破りの話だ。

 原稿は大阪日刊スポーツ紙上で08年6月10日から2週間掲載された。広瀬と筆者の井関真は40年近い親交がある。井関は日刊スポーツ入社後、配属された野球部で最初に担当したのが南海だった。入社1週間で初めて東京へ1人で出張に行った時、チームは前期の勝負どころと言われた試合で、奇妙な投手起用をして敗れる。原稿を書いていたら、相手チーム担当のベテラン記者が「そんなのじゃあダメ。原稿というのはこう書くんだよ」と、辛辣な批判原稿をサラサラと書いた。

 「凄いもんやなぁ」と感心していたら、最後に「井関」のクレジットを入れてファクスに放り込んだのである。翌日の新聞に批判原稿は【井関】のクレジットいりでそのまま掲載された。

 右も左も分からない新人記者にこき下ろされたとあって以後、監督兼4番兼捕手の野村には無視され続けた。何を尋ねても、ほとんど口をきいてもらえなかった。野村は南海、ロッテ、西武で現役を終え、ヤクルトで再び監督に就任。4度のリーグ優勝と3度の日本一で名将の名を手中にする。

 井関はデスクを皮切りに内勤職が続いたが99年、編集委員として現場に復帰する。長らく東の球団に在籍していた野村も阪神監督に就任。監督-取材者の関係が復活した。その後、阪神から離れた野村と井関が一緒にテレビに出た時、野村は井関にしみじみと語りかけた。「昔はよういじめたったなあ。お前ほどいじめたヤツはいてない。テレビで仇討ちはせんといてくれよ」と、笑いながら言った。

 話を広瀬-井関に戻そう。幸いにも広瀬とはそこまでの冷戦状態ではなかった。広瀬は77年の引退翌年には監督に就任するが、解任された4番捕手野村や抑えの江夏、次期主砲候補の柏原を流失し、決定的な戦力不足の中での戦いを強いられた。広瀬はその中で初めてマスコミとの距離を縮めて本来の優しさをみせた、と井関は記している。

 広瀬は故郷の広島へ戻り、NHK解説者、日刊スポーツ評論家として広島カープの試合を追っている。大阪から異動で広島へ赴任し、3年周期で交代する担当記者へ常に言っているコメントがある。「選手のプレーを褒めるのも批判するのも新聞記者の大事な仕事。でも選手の給料は常に頭に置いてあげてほしい。手痛い失策をしても、年俸1000万円の選手と、1億円の選手を同じように叩くのは間違い」。プロなら給料分の責任を負う、との考え方。「グラウンドにはゼニが落ちている」の名言を残した鶴岡一人監督の愛弟子にふさわしい考え方ではないか。(敬称略)

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